なんだか最近、サーバーとのつながりが弱まっている気がする DEATH STRANDING。今回は配信前に接続エラーが出なくなるまで何回もセーブデータを読み込んだり、PlayStation 4(PS4)自体のインターネット接続を確認したりしていました。サーバーを管理しているのが KOJIMA PRODUCTIONS なのかソニー・インタラクティブエンタテインメントなのかよくわかりませんが、拳を突き出して本格的に拒否されるまで、本日も張り切って続きをやっていこうと思います。

年末年始に仕事に追われてゲーム日記の更新がとまっている間に、PlayStation 5で先行リリースされていた DEATH STRANDING Director’s Cut の PC 版が3月30日に出ると発表されました。おそらくグラフィックに贅沢なことを言わなければうちの PC でも遊べると思うので、問題なければ今春 Steam 版のほうを、今の PS4向けオリジナル・カットから切り替えてゲーム日記を書いていく予定です。

これについて、今一番気になっているのは配信とかスクリーンショットとかのゲーム映像や画像をめぐる権利です。Twitter で KOJIMA PRODUCTIONS にはそういったガイドラインやポリシーみたいなものの記載がないとブツブツつぶやいていたんですが、のちのち505 Games さんの公式サイトに参考になりそうな FAQ が記載されていることに気付きました。

Yes, and this includes monetized channels as well. However, we reserve the right to withdraw our permission should it prove necessary.

We also ask that you do not stream a game prior to its street/release date unless you have been given permission to do so.

We appreciate your interest in our work and thank you for the support! If you have any questions about this policy, please submit a ticket to us and we’ll get back to you!

Can I stream your games on Twitch or YouTube?

この FAQ 自体が日本国内向けにローカライズされていないみたいなので、これが国内にも適用されるものなのかよくわかりませんが、内容を読む限りでは、基本は特に小難しいルールは存在せず、公式から指摘があれば素直に応じて取り下げるぐらいの感覚でいいみたいです。おそらく PS4版で撮影禁止区間になっていた部分だけ気をつければ、PC 版でも同じ要領で問題なく配信やプレイ日記が続けられるかなと考えています。一応、Twitter とメールで公式に問い合わせもしているので、これと違う回答が返ってこない限りは、これから PS4版から徐々に PC 版の Director’s Cut へ移行という流れでやっていこうと思います。

とは言え、今回のプレイ日記は昨年配信した内容のまとめなので、まだまだ PS4版のオリジナル・カットの内容なんですけどね。というか、私の記憶が正しければ、Director’s Cut でもメイン・ストーリーには変更なかったはずなので、物語の掘り下げという点ではそれほど差もないはずです。

さて、前回は K4南配送センターまで自動配送ロボを運んでカイラル通信につないでいました。そこでフラジャイルと真剣な話し合いをして、サムもやっとヒッグスをなんとかしなければという気持ちになってきたようです。

今回は新しいブリッジズの拠点、気象観測所へ向かうので、カイラルネットワークを広げた帰り道に、みんなの建設物をまた読み込んでほしいなと思っていたんですよね。なのでサーバー接続を重視していたわけですが、逆に今になって考えてみたら、サーバー通信断絶状態で新しい拠点をカイラル通信につないだときにどうなるのかちょっと気になってきました。建設物も看板も、何も共有されずに終わる地味な結果だったら悲しいな。てか、つながりのない本作なんて物語の基礎になるコンセプト、半分ぐらい転けてんじゃない……? もしかしたら何年かあとにサービスが停止して、またファンがローカルで機能するゲーム要素だけで本作をプレイして、「懐かしい」でも「寂しい」、「サム、全然北米大陸つなげてない」みたいなコメントを見る日がいつか来るのかな?

サム指名依頼 No. 27「気象観測所へ『高精度カイラル物質測定器』を配送せよ」

気象観測所は西の山の中腹にあります。ここらへんからしばらく、サウス・ノットシティへ向かうまでは、物語という点ではそれほど進展がなく、小説のほうでもバッサリ割愛されている第二次遠征隊の行程になります。なので、物語の掘り下げは簡単に済ませて、ちょくちょく指名なし依頼をはじめとした雑用を加えてボリューム調整していくつもりです。今回の配信はとくに、オミクロン株の到来に備えて勤務時間長めになっていた家族を深夜に迎えに行くためにズルズルと明け方まで指名なし依頼を続けていました。

私自身のほうは、正直、この配信をした時点で年末年始の仕事のスケジュールが早めに埋まっていたので、今回の配信をした段階から、もしかしたらブログの更新がスローダウンするかもと警戒していました。配信中も話していましたが、これと次の指名なし依頼消化旅が年内最後の更新にならないようになんとか頑張りたいと思っていました。まあ、無駄なあがきでしたね。

そうそう、順当にいつもの順番でゲーム日記を更新していくと、次は指名なし依頼をひたすらこなしていく配信になるんですが、Director’s Cut の PC 版発売が決定したので、どうせならその時間を Director’s Cut の指名なし依頼に充てたほうがいいような気がしています。しばらく指名なし依頼だけの配信はお休みにして、PC 版のストーリーをここまで進めることを優先しようと思います。ということで、今回のサム指名依頼はこんな感じ 👇 です。

K4南配送センターから気象観測所へ高精度カイラル物質測定器を配送し、カイラル通信を接続する。その結果、カイラル濃度の変化を観測し、時雨の発生や、BT の出現を予測する精度がアップするだろう。

サム指名依頼 No. 27「気象観測所へ『高精度カイラル物質測定器』を配送せよ」の依頼の詳細より
高精度カイラル物質測定器

依頼内容の確認画面で、今回お届けする高精度カイラル物質測定器のイラストが確認できるんですが、円盤状の筐体にアンテナがセットされているみたいな外見です。なんか UFO みたいですね。

今回の依頼でこれを無事に届けられると、サムの手元の手錠端末で天気予報が見られるようになります。「天気予報」とは言っても、この世界の空はデス・ストランディング現象でこれまでの物理的な気象現象とはまた別物の現象が起こるようになっているので、今回利用できるようになるのは、あくまでカイラル濃度の測定値をもとにした時雨の発生予測機能です。配達経路に広がる座礁地帯の確認に役立ちますが、私は面倒くさがりなので、雨が降っていようがいまいが気にせず、そのとき気が向いた荷物を運び続ける粗野な運び屋です。ぶっちゃけ、この機能も最初に物珍しさで使ってみるだけで終わりそうです。

柱状の岩

気象観測所は K4南配送センターの前を流れていた川をさらに少し南下して、対岸の山の斜面を登ったところにあります。川岸のほうは柱状の岩が地面からいくつも顔を出している歩きにくい地帯です。国道を復旧させて、移動に便利な建設物がある程度そろうとそれほど苦でもないんですけど、まっさらな今は初見プレイのときにクタクタになって歩きまわったときの気持ちを思い出します。目の前に見えている国道復旧装置にも、また素材を放り込みにこないといけませんね。ここは川幅の広い川もあるので、急いだほうがいいような気がします。うちのサムのことなので、また事故る気が……。

配信中に、小島監督がこのゲームのリリース前にヨーロッパの北のほうの国に行っていたので、その国がこの世界のイメージになっているんだろうという話をしておきながら、ざっくり北国というだけで、具体的な国名が出てこなかったんですが、この作品でよく楽曲が流れている Low Roar が拠点にしているアイスランドが正解でした。でも地理的に近いのもあってか、スコットランドの自然風景にも似ているという指摘がインターネット上にはちらほらあります。

この柱状の岩もその国でよく見られたものかなって言ってたんですが、地質学的にこの手の岩は世界中で見られるもので、日本でも伊豆半島とか兵庫県の玄武洞とかが有名らしいですね。火口から流れ出た溶岩が冷えて固まるときに、体積の収縮が一定間隔で起こって、四角から七角形ぐらいの柱状に固まってできるらしいです。キレイなものは本当に蜂の巣のように規則正しい六角形になるんだとか。自然って不思議ですね。

ということは、ここらへん一帯はその昔、溶岩が西の山かどこかから大量に流れてきてこの火山岩が形成されたと考えられます。けっこう激しい大規模な火山活動ですよね。そう言えば、これからサムの旅が大詰めになってくると、西の山の火山地帯でタールを回収する依頼を受けることになります。火山ってよく地獄と結びつけて考えられるんですけど、火口付近からタールが湧き出てきているってことは、この岩もビーチとなにか関係があるのかな?

気象観測所

溶岩の出どころは西の山だろうと思うんですけど、川を離れて山道に入ると逆に柱状の岩は見えなくなるんですよね。これは時雨の関係で風化の進み具合に差がでているのか、それともどこか違う場所から溶岩が川床に流れ込んだ結果なのか、ちょっと気になります。むしろ川底からしみ出してきているみたいな話だったら、BB-28が水を嫌がって泣く理由ともなにか関連があるかな?

山道を登り始めて、気象観測所が見えてくると、あたりはすっかりアニメ『アルプスの少女ハイジ』の世界です。ヤギとか放牧してそうな雰囲気ありますもんね。この世界じゃあ実際は放牧も絶望的でしょうけど。しかもこの周辺、地味に雨続きで、カイラル結晶がよく育っているし、大きな座礁地帯もすぐ隣の川を渡った向こうに広がっています。

アレックス・ウェザーストーン

そんなことを言っているあいだに、お届け先に到着しました。気象観測所で荷物の受け渡し窓口を担当しているのはアレックス・ウェザーストーンさんです。ウェザーストーンは天気に絡めたいつものそのまんまな命名ですけど、アレックスはなんか意味があるのかな? アレックスは古代ギリシアのアレクサンドロスから派生した名前で、「人類の守護者」というような意味があるそうです。なんか……やたら壮大だな。

このかたのキャラクターモデルは、NIKE などのデザインでおなじみのエロルソン・ヒューさんだそうです。なんかやたらと男前なオーラがあるなと思ったら、やはりシャレオツなお仕事をされているかただったと配信でも話していました。このあと登場するママーの双子の妹、ロックネが着ている服など、作中の独創的な装いは、彼がデザインを手がけているそうです。同じ系統の名前で、このアレックスが定番の愛称になっているアレキサンダーという名前は、同業のデザイナーにも多いから、そこからとってたりもするのかな?

小島監督とつながりのある人たちがカメオ出演しているのは、この物語のコンセプトにも呼応した今作の特徴になっています。ほかにもエンジニアは日本のホラー漫画家、伊藤潤二さんがモデルをされていて、彼はギレルモ・デル・トロ監督と一緒に幻の Silent Hills の制作に関わっていたと言われていますし、このあと登場するコレクターは、日本の言わずと知れた大手ゲーム情報誌『ファミ通』の元編集長で、グループ会社の代表も歴任した浜村弘一さんがモデルをされていて、この DEATH STRANDING が『ファミ通』のクロスレビューで満点を取ったのもこのつながり、もとい癒着のせいかと一時期国内外から批判の声が上がっていました。

外見がどことなく似ているカイラル・アーティストが出てきたときにまた詳しく書こうと思っていたんですけど、以前に小島監督と METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN で仕事をしたことがあるクワイエット役のステファニー・ヨーステンさんは、DEATH STRANDING について同業者と語り合う YouTube のインタビュー動画で、製作初期に監督本人から直接フラジャイル役を打診されていて、予定も空けていたけど1年ほど音沙汰がなく、あまりにもその後の連絡がないので事務所を通じて問い合わせをしたときに、すでに役がほかの人の手に渡ってしまっていたことを初めて知らされたと語っていました。動画内ではオファーがあった証拠として、監督から当時渡されたという初期のフラジャイルのコンセプトアートを手元のスマートフォンでみんなに見せています。当時はこれをもとに役作りしようってことだったんでしょう。

いちおう彼女の名誉のために言っておくと、彼女はこれを恨み節でゴシップのように暴露したわけではなく、本作の話題になったときに、あくまで関係者やファンからの問い合わせが多いので正直に話すことにしたと明かしています。本人をはじめ、彼女側の関係者は新しい小島監督の作品に引き続き参加するつもりで準備していたので、1年越しで待った仕事が突然なくなったと知らされたことにずいぶんと困惑していたそうです。また、彼女の活躍を待っていたファンのほうも、この動画が公開された時期になっても、まだ彼女がなんらかの形で最新作に関わっているんじゃないかと期待して待っていた人も少なくなかったようです。彼女はそういった人々からたびたび、新しい制作裏話を求められていたので、自分に語れることは何もないとはっきりさせる必要があると判断したみたいです。

混乱はしたものの、今となってはこの業界ではよくあることと割り切っていて、レア・セドゥさんのようなハリウッドで活躍する大物の役者と違って、演技力や表現力に加え、より幅広い層にアピールできる力が自分にはなかったのだろうという結論に彼女なりに達したらしいです。監督が今作から世界的に知られる著名人のキャスティングに方針を変えたことは明らかであったため、腑に落ちないところはあるものの、求められている基準を残念ながら自分では満たすことができなかったと考えているといった感じの話で締めくくられていました。

前回、フラジャイルに対する暴力的な描写にちょっと違和感があると書いたつながりで、小島監督の作品にはどうも男女観のゆがみがあるんじゃないかとつらつら書き連ねたんですが、そう言えばこの小島監督とつながりがある人のカメオ出演も、女性の姿が一人も見えないような気がするんですけど、私の気のせいですかね? 東部エリアのブリッジズの拠点は、窓口に立っているのが全員男性で、民間人の二人も男性でした。やっぱりなんか、小島監督の世界はアンバランスなんですよね。

ちなみに、一般人のうち一人は、前に書いたとおり、元 Folder で子供のころからミュージシャンとして活躍されている三浦大知さんでしたね。もう一人のルーデンス・マニアは、米 TV 司会者で、ゲーム情報サイト KOTAKU などにも記事を寄稿しているジェフ・キーリーさんです。

カメオどころか、ミュールもテロリストも女性の姿が見えないので、この北米大陸、本当に女性はどこへ行ったのかと心配になってしまいます。これを「北米大陸が待ち望んだ繋がり」と言い切られると、こんな生きづらい世の中でも頑張って男の子も女の子も育てている一人の親としては、なんか複雑な気持ちになります。

仮にフラジャイル役にハリウッド女優みたいな大物がキャスティングできるとなって、ステファニー・ヨーステンさんへのオファーがなくなったとしても、もし小島監督が本当に人とのつながりを大切にする人だったら、彼女をプレッパーズやブリッジズのメンバーの一人として再キャスティングする方法もあったと思うんですよね。その上で彼女がこの仕事を断るなら、ここまでの醜聞にもならなかったと思うんです。現にそうやって、それまでの作品に比べて大幅に出番が減ってしまったとしても、今作に引き続き登場しているおなじみの役者さんや声優さんもいるわけじゃないですか。少なくとも一人の人間として、申し訳ないけど以前に話したお仕事がなくなってしまったと、確定した時点で早めに伝えることもできたわけですよね。彼女と彼女の所属事務所はそのあいだも、わずかなイメージから役作りのことを考えて、スケジュール調整できるように動いていたわけですから、社会人としてどうなのかという話にもなってきます。

まあ、実際にフリーランスで働いているとこれよりもっと横暴な依頼主もいっぱいいますけど、いいつながりとは言えない形で、彼女は今回バッサリとつながりを切られてしまったと言っていいと思います。ヨーステンさんの例は、あくまで小島監督の交友関係の傾向を示す数多のサンプルのひとつでしかないんですが、前回も書いたように作品全体を見ていくと、こういう監督のいびつな傾向がチラホラ見えてくるので、彼女との絆だけに特別な問題があったわけじゃなさそうだなという気が私はしています。それが今作のプレイ中もちょこちょこ頭を過って気になっていたんですよね。私としては、エンディングを見てから今作の評価がガクンと下がったと書いたことがあるんですけど、こういう監督の人間性のゆがみみたいなものが影響しているんじゃないかと最近になって考えるようになりました。

以下、つらつらと、私が最近、小島監督のインタビューなどで覚えた彼の作品の違和感をまとめておきます。あんまり愉快な内容じゃないので、できれば前回みたいな、気になる女性キャラクターの描写が出てきたときとか、要所要所だけ軽く触れて最低限に抑えておきたかったんですけど、最近いくつか新しいインタビューで話している内容を調べて、これは無視するのは無理だなと悟ったんですよね。読んでいるみなさんも、好きな作品についてあれこれ語られるのはあんまりいい気がしないと思うので、適当に読み飛ばしたい場合は次のページへ移動してください。気象観測所をカイラル通信につなぐところから再開します。

指さし 次のページ

そもそも監督、人間関係の構築が本当は不得手なんじゃないかなという印象を私は受けています。インタビューをいくつか読んでいると「物創りとは孤独なもんだ」みたいなきれいな常套句でいつもまとめられていますが、考えかたに偏りがあるか、ヒューマンスキルに問題があるんじゃないかなと私は疑っています。先月発売された anan のゲーム特集号のインタビューでも自身について、似たようなことを語っています。

僕にとってのすごいとか、心惹かれるクリエイターの共通点は、孤独であること、孤立していることだと思うんです。僕自身もですが、必要以上にものを考えている人って嫌われるじゃないですか(笑)。常に、寝ている時も次のネタや何かを考え、運動や旅行をしていても無心になれず、誰かと一緒にいても違うことを考え、同じ言語を話せないので。周りにいい大人や仲間がいないと狂人扱いされるんです。そんな自分と同じような思いをしているクリエイターの作品を見ると、一人じゃなかったと励まされ、勇気をもらい、目標になります。

anan 2022年2月9日号 No.2285『カルチャーを感じる、ゲーム案内。』

おそらく社会性に問題があるタイプで、特定の社会や集団に放り込まれたときに、馴染むまで苦労するタイプの人間なんだと思います。問題があるっていうか、問題自体はみんな人間なら多かれ少なかれ抱えているものだと私は思うんですよね。日本では保育園や幼稚園から本格的な集団生活が始まって、社会に生きるということをみんな学んでいくわけじゃないですか。その過程で自分というものを知り、相手との距離の取り方を学び、ライフステージが進んでいくごとに、年齢や社会的立場に合った立ち振る舞い方や考え方も身についていくわけです。小島監督の場合は、まずもって自分の問題ときちんと向き合えていないっていう問題がありそうな印象を覚えました。そこで認知が歪んで、バランスを取るためにさらに変なゆがみが出ていて、そういうところが物語のおかしさを生んでいるんじゃないかという可能性を今、私は考えています。このゆがみ、ゲームをプレイする側としては、なんか都度都度、居心地の悪さを覚えるんですよね。女性キャラクターへの攻撃性という話題を前回取り上げたんですが、たぶんこういったところは彼の認識のゆがみが顕著に出ている部分だと思います。

映画監督を中心に、豪華な顔ぶれがそろう今作のカメオ出演ですが、この豪華そうに見えるつながりも見ていくと、じつは親密って言うほどではないみたいな話がよく出てくるんですよね。ギレルモ・デル・トロ監督なんて、今作の演出だけ見ているとまるで恋人のような特別扱いですが、実際にどれくらい交流するのかという話題になったら、監督は『文春オンライン』のインタビューで、あくまで作品作りの相談をするだけみたいなことしか言っていませんでした。

デル・トロ監督とは、自分の作ってるもののプレゼンしかしませんね(笑)。お互い、そればっかりです。見てくれ、見てくれって。毎回そうですよ。レフン監督(※ニコラス・ウィンディング・レフン監督も『デススト』に出演している)もそうですけど。今考えてるストーリー、聞いてくれないか、とか。お互い「どう思う?」って。それは楽しいですけどね。他の人とはそういう話はできないので。

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ハートマンを演じるレフン監督についても、Twitter でたびたび「レフンちゃん」とまで呼ぶ親密さを見せていますが、2017年のイベントでは意外と実際にやっと会えたのは3年前で、日本で会うのはこのイベントが初めてみたいなことを言っています。

レフン監督にとって小島監督は、もっとも仲のいい日本人クリエイター。まずはふたりの出会いから語られることになった。2009年制作の『ヴァルハラ・ライジング』がアメリカで公開された際、小島監督のもとにアメリカの友人から「すごい映画がある」とメールが届いたという。しかし、なかなか日本で公開されず、Blu-rayを輸入して鑑賞。そこから『ドライヴ』、『プッシャー』と遡り、『オンリー・ゴッド』ではコメントを書くなど、レフン監督に惚れ込んでいったそう。なんとか連絡先を聞いて、3年ほど前にロンドンでようやく会うことができたそうだ。ちなみに、日本で会うのは初めてとのこと。

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デル・トロ監督とはカラオケに一緒に行ったことがあるそうなので、そういう親密度から言うとデル・トロ監督のほうが上かななんて思うんですが、そもそもお二人とも日本を拠点に活動しているかたではないので、日常的に顔を突き合わせるお付き合いはほぼないと考えていいと思います。私は最近になって小島監督のインタビューをちゃんと調べるまで、監督は英語を流暢に話す人で、さすがにネイティブではないので、どこかに登壇するときとか、きちんとした場では間違いがないように通訳を使うようにしているだけだと思っていたんですが、2019年のサンディエゴ・コミコンでレフン監督がインタビューで話した情報によると、小島監督とはお互い英語と日本語で話して、常に間に通訳や翻訳を挟んでやりとりしていたそうです。それくらい距離感がある相手なら、いくらちゃん付けで呼ぶような仲でも、人間、なんとでもいい顔を繕えると思うんですよね。

METAL GEAR シリーズが多大な影響を受けたとされる1981年公開のSFアクション映画『ニューヨーク1997』のジョン・カーペンター監督は、小島監督が「ナイスガイ」だったので、盗作で訴えようとしていた権利元の企業の動きを制止したことがあるとインタビューで語ったことがありました。

関係者によると小島監督にとって、カーペンター監督は「カーペンター監督は僕の師匠なのでコメントをもらう際に手紙を書いたりしました。実際にはお会いできていませんが、その後のやりとりも続いていました」とコメントするほど尊敬する存在。またカーペンター監督自身も、『METAL GEAR SOLID 3 SUBSISTENCE』発売時など、『メタルギア』シリーズへの称賛の言葉を寄せており、厚い信頼関係を築いている。それだけにカーペンター監督は、訴訟を阻止したときの様子を振り返り、「僕は、彼らにそんなことはやめるように言ったんだよ。あのゲームの監督はナイスガイと知っていたからね。少なくともわたしにとってはナイスなヤツだった」と語っている。

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すでにキャリアを築いて名声を得ている海外のクリエイターに、せっせとファンレターのようなものを送って親しくなるのは、簡単とは言えませんが、個人のヒューマンスキルみたいな面から言うと、上にも書いたとおりなんとでも上っ面を繕える距離感なので、その点では人としての根底というか、底力みたいなものが試される場面は少ないと思うんですよね。憧れの人に近づきたいという願望は、自分の価値を高めるとか、自分の生きづらさみたいなものを緩和するとか、本能的なメリットがあって生じるので、それを叶えるための苦労っていうのは、案外苦じゃないことが多いんですよね。

逆に試されるのはなんなのかって言ったら、普段ずっとそばにいる夫婦や家族の関係、仕事で一緒に踏ん張って、プロジェクトを成し遂げる仲間だと思うんです。ずっと一緒にいて、きれい事だけでは言い繕えなくなるし、ごまかしがきかず、ずっとそばで人間性みたいなものを観察されることになりますからね。相手から見られるだけでなく、人の嫌な部分が見えたときにどうするかという個人の処世術も試されます。長期的な関係なら、相手からの見返りがすぐに期待できない投資だって忍耐強くしていかなきゃいけないこともあるし、いつも自分のなかにトキメキみたいなものを持って接することが難しくなることもめずらしくありません。ある意味、素の汚い部分もさらして、それを乗り越えてどうやってお互い付き合っていくかみたいな苦悩とも日々向き合わなきゃいけなくなる距離感なわけです。みんなそうやって苦労して、社会のなかで居場所を見つけようともがいて生きていると思います。

上述の雑誌インタビューで監督も「周りにいい大人や仲間がいないと狂人扱いされるんです」と語っていますが、私はそのとおりだと考えています。逆に、やっぱりそういう扱いを実際に受けていたんだなと、自分の直感は正しかったのかもしれないと思うようになりました。彼が言う「いい大人」が何を意味しているのか、ちょっと言葉どおり読んだだけではわからないんですが、周囲の人との関係って、その人の人となりみたいなものが出ると私は考えています。全く社会に興味がないけど、一応生活していける仕事を見つけて、周りにそれほど迷惑をかけない人もいるでしょう。この世には本当に共感性に乏しいサイコパスだって普通にごろごろいます。そういう人が、変わり者というだけで社会から不当な扱いを受けることも、確かにあります。

でも小島監督の場合は、インタビューの文面からも、そんな自分を受け入れられない、なんか気取って誤魔化したいっていう姿勢が透けて見えるんですよね。そこに周りの気分を害する KY さや攻撃性が潜んでいるんじゃないかなというふうに感じました。例えば、同インタビューでも前後の文を読むと、自分は周りの人間とのコミュニケーションが下手だとか、自分はうまく理解されない人間なんだという事実を述べるだけじゃなくて、「自分は一般人と違って必要以上にものを考えているすごい人間なので、周囲の誰からも理解されない」というふうな物言いをしています。彼が周りに馴染めないのは至極簡単で、プライドが高いせいで周囲への気配りを自ら選択して怠っているからじゃないかと疑っている私です。例えば、このインタビューの続きで、新川洋司さんが台湾かどこかで占いをしてもらったときに「こんな親玉(=小島)はダメ!」と言われたエピソードを語って、だから占いは信じられないと結論づけています。曰く「言う通りにしていたら独立もしていなかったし、あまりにもハズれていたので」だそうで、新川さんが監督について KONAMI から独立したのはいいことだったと断言しています。でも会社から独立するときに、どっちがいいかなんて結果論でしか語れないと思いませんか? だからみんな悩むもんだと思います。新川さんにはご家族もいて、独立して収入が減れば家族の人生も変わる可能性があったかもしれません。人の人生について、そうはっきり何がいいと言い切れる神経が私にはちょっと驚きでした。

この新川さんの例以外にも、小島監督の独立に際して、監督を信じて KONAMI からついてきてくれた社員が今の KOJIMA PRODUCTIONS には少なからずいるわけなんですよね。でも彼は、いろんな人に支えてもらってこの DEATH STRANDING という作品ができたので、これも僕のつながりの一部だというような言葉ではなく、「孤独って最高! 孤高のオレ天才! 名だたる映画界の巨匠とおんなじ!」としか主張できないんです。自分の関心事ばかりに注視して、それを繕う言い訳で周りが見えていないように感じられます。こういう姿勢が私の目には一人の社会人としてものすごく幼稚に映るし、その結果、例えば女性キャラクターへの異様な加虐性みたいなゆがみが作品に出ていると考えれば自然につながるし、そういうことがすべて相まって余計に残念に見えてくるんですよね。自分に嫌なところがあるなら、人並みに努力すればいいだけの話だし、する気がない、あるいは、できそうもないっていうなら、もうそういう自分を素直に受け入れられるようにならないと、人間もっと厄介になるだけでしょ?

誰かが窮地に追い込まれたときに、身近な家族や仲間がパッと支えてくれたら、ああ、この人、普段から家族を支えているから家族のほうも支えてくれるんだなってちょっと思うし、仕事でも困ったことになったって相談したら、例えばまとまった有給休暇を出してくれるような勤め先だと、あ、普段から大切にされている人材なんだな、いい会社と付き合ってんだなって思いますよね。でも小島監督は30年近く務めた KONAMI から、半ば追い出されるように独立した人なんですよね。監督は大学時代の友人についても、「(経済学部では)金融機関への就職をめざす友人たちと話が合わず、ひとりで過ごすことも多かった」とインタビューで振り返っていて、私生活の人間関係の充実してなさは生来のものか、幼少期の経験からくる筋金入りのものじゃないかという匂いがぷんぷんしてきます。

これだけ自身の孤独を正当化しておいて、anan のインタビューで今年の目標について聞かれると「コロナ前の自分に戻りたい」として、「仕事でも、いろいろな人やものを繋いで物創りをしていたし、作る過程で多くの人に会っていました」と言うんですよね。自分の周囲の人間すらつなぎとめられない孤独な人間が、人やものをつなぐ生活に戻りたいと語るのは、例えば普段ろくに勉強もしない、それもしなくて何が悪いぐらいのスタンスでいる人間が、東京大学の受験については偉そうに語り出すみたいな違和感があると思うんですよね。

こういう、身近な人間関係はものすごく不得手だけど、距離があると苦手意識が和らぐタイプって確かにいるんです。あるいは、集団は苦手だけど、一対一の特定のシチュエーションなら魅力的な人間であるかのように上手くアピールして振る舞えるタイプの人間も少なくありません。前者は劣等感が激しく、人間関係を上下でしか構築できないタイプです。基本的に身近な人間はみんな下に見ようとする傾向があります。後者は共感性に乏しいサイコパスに多いと言われています。小島監督、こういう社会性に難があるタイプじゃないかなと私は疑っています。だから作品の舞台も、日本育ちの日本人なのに、せっせとアメリカ合衆国の物語を描こうとするんじゃないかな。戦後の高度成長期生まれだから、欧米文化への憧れが刷り込まれているだけかなと最初は思っていたんですけど、逆に身近すぎてリアルな苦手意識のアレコレが呼び起こされる日本の物語を避けたい心理もありそうだなと思いました。

ここらへんの距離感は、一部の女性がオタク作品に恋愛感情をぶつけると腐女子になるところにも似ていると思います。あまり自分と接点のない異性の同性愛者を素材に選ぶことで、背景のカベになって自分の存在を劣等感ごと世界からうまいこと消すんだけど、その原理を掘り下げていくと、その人の欲求の屈折した爆発で、自分の悪いところや苦手なところ、面倒くさいことを棚に上げて自分の好きなことだけ追求したいっていうわがまま心理の塊なんですよね。小島監督の作品も、素直に表すことができない男性心理の屈折とかこじらせがすごく多い印象です。

私が小島監督の言動で気になった特徴は、自分語りだけじゃなくて、他者の批判もセットでよくするところです。たぶん自分は孤高でいいと考えているような人なので、一般の同年代の人たちが、所属する組織のなかでの立ち振る舞いを苦労して身につけていく上で、当たり前に持っている気遣いとか、ちょっとしたマナーとかの意識がほぼほぼ欠落しているんだと思うんですけど、本作のプロモーションから最近のインタビューに至るまで、自分の作品とただの戦争ゲームを一緒にするなというようなトゲのある発言を何度かしています。

When I first started my own production, the easiest thing for me to do is to make a game where everyone is on an island and shoots each other. I don’t want to make that.

Hideo Kojima, San Diego Comic-Con 2019.

こじらせているだけならまだいいんですよ。誰だって妄想はするし、妄想は現実世界を生きるメンタルの維持に欠かせない薬にもなります。彼の問題は、こじらせた結果、こじらせていない者を非難して落とそうとしたり、自分がこじらせていないように見せるために他者を利用しようとしたりする厄介なクセもありそうなところです。ちょっと大人げないのでやめたほうがいいし、そういうことをされると彼の作品を素直に応援しづらくなるんで困ってしまいます。誰だっていい大人が他人のやっていることを批判して自分を正当化しようとしている姿を見ていると痛々しい気持ちになりませんか。

この記事を書いている最中に、ちょうど YouTuber のヒカルさんが、とある中堅芸人に散々バカにされたと批判する動画を投稿して炎上する騒ぎがありました。そんな愚痴は動画でさらさず胸にしまっておけという視聴者の意見が多かったのと、バカにされた芸人を見返すために、自分の収入の方が上だとマウントをとった点で心証が悪かったようです。たぶん最初にバカにした芸人さんの方も、こういう YouTuber の性質が鼻についてマウントという行動に出たと思うんですよね。これって一般人でも身近でよく見る負の連鎖だと思うんです。

炎上の傍ら、インターネット上では、件の動画では名が伏せられていたマウント芸人探しが始まっていて、ウワサを耳にしたそれらしい芸人さんたちが我も我もと名乗り出て勝手に謝り出す大喜利のような雰囲気が醸成されていきました。このときに私、やっぱりお笑いは最強だなと思ったんですよね。誰も傷つかないし、なんなら場の風通しをよくして空気や流れを改善するメリットも提供できているし、うっかり空気を読めない言動に出てしまった人もそれほど傷つかずに自分の至らなかった点に気付ける、さらに大喜利に参加した中堅芸人にも名を売るチャンスがある win-win 構造にうまいこと収まったと思うんですよね。それは勝手に収まったというより、収まるように気を使える大人が一定数そこにいたからこそできた場の空気の転換だと私は思います。

私の世代でお笑いの一時代を築いた人と言えば、ダウンタウンとかウッチャンナンチャンなんですけど、子供の頃よく見ていた彼らの作品は、保護者が子供に見せたくない番組の上位に食い込むような内容でもありました。自分の体を張るとか、誰かをイジるとか、誰かを叩くとか、素人が真似をするとイジメや虐待になりそうなものもあったし、子供では理解できないような物議を醸す内容も混じっていました。今でもウッチャンが番組のネタ作りで頻繁に取り組んでいたトリモチ地獄の企画について、どれだけキツいかをうなだれて訴えていた姿を覚えています。実際にウッチャンナンチャンの番組では、こうした体を張る企画の収録で事故が起きて、死者が出る事態にもなっています。

今の平成から令和のお笑いって、いかに誰も傷つけないか、いかに場の空気を微妙にしないか、それでいていかに老若男女を遠慮なく笑わせることができるかっていう難しい制限の中で完成させなくちゃいけないプロのお仕事だと思うんですよね。それはいろいろな議論を経て、古い前世代の失敗をきちんとふまえた進化だし、今面白いものを真摯に、前向きに、愚直に追求する姿勢があってこそ成り立つ職人の技だと思います。これは表現規制が厳しくなってきたゲームとかにももちろん言える話だと思いますが、そういう制限の中で課題に取り組んで作品を作っている人間と、安直に愚痴をまとめた動画でネタをつなげる YouTuber の単純な比較であれば、そりゃお笑いの方がなんぼか大変だよというのが私の素直な感想です。もちろんヒカルさんほど有名なら、きっと愚痴みたいなネガティブな内容でも、煽る相手や煽るポイントとか、いろいろ素人にはわからないところでわきまえていることもあると思うんですけど、見ている人間が気持ちいいのはどちらか、見た結果どういう効果を生むのかという、相手への気遣いや先見性という点では比べるまでもないと思います。そもそもヒカルさんが謝罪動画を出したのも、自分の感情や考えがどうこうより、至らなかったところは素直に認めて対外的に筋を通した方が今の時代は生きやすいと判断したからだと思います。今の世の中はよくも悪くも、このポーズでもいいから筋をきちんと通して周りを気遣いながら社会の中で生きていくという姿勢がすごく試される時代になっているなと感じます。

話が盛大に逸れたんですけど、小島監督のこじれ具合って、結局この周りのお笑い芸人が気を利かせる前の lose-lose 構造に似ているなと思ったんですよね。自分の劣等感が刺激されたとか、プロモーションとかで自分を大きく見せなければならないとなったとき、小島監督は前時代の悪習で、周りを下げる言動をとる傾向があるように感じます。とにかく身近な何かを下げないと、メリハリが利いた売り込みポイントを作れない思考に陥っているんじゃないでしょうか。しかも小島監督の場合は、戦争ゲームを作っているのに戦争ゲームを作っている他者を落とすという意味不明なナゾ構造でもあります。それはつまり、自分だけで売り込みポイントを作ることができない実力不足でもあるんじゃないかなという疑問を生みます。

KONAMI との一件は傍目に見える情報だけかき集めていくと、どうもスマートフォン向けアプリの利益を優先して、開発費が大きなコンシューマー向けの大型タイトルを切り捨てようとした経営側と監督の対立みたいに見えたので、あそこまで自社の人材を追い込むあの KONAMI の動きはフェアじゃないよねと私自身、感じていました。ただ、個人的にはあの一件で各方面から批判を浴びて、明らかに心証が悪かった KONAMI 側がまともな反論をほとんどせずに沈黙を貫いた点に不気味さを感じてもいました。それだけでなく、同社は監督が開発に携わっていた作品のことももう語るなというような箝口令めいたものを敷いていたという話までありました。KONAMI ぐらい大きな会社になれば、パブリックイメージを守るために火消しのようなこともやりそうかなと思ったんですけど、そういう動きがほとんど見られなくて、とにかくだれも話題にするなという感じで貫き通していた印象でした。

それに、インタビューを読む限りだと、予算の問題は監督本人もちゃんと理解していて、作品に合わせてきちんとそこらへんは意識しているように見えました。実際に小島監督を手放してからも、KONAMI はオンライン・ゲームの METAL GEAR SURVIVE をリリースしたりもしていますよね。そんななりふり構わず追い出さないといけないような金食い虫だったのかなという疑問がどうしても頭を過ります。

今作の表現を掘り下げていった勝手な印象だけで書くんですけど、なんかその裏の監督周辺で、社員の揉め事とか起こってたりしないかなと、本作で覚えた違和感について考えているときにちょっと思ったんですよね。ものすごく対人問題起こしそうな、自己中心的なタイプじゃないかなと感じたんですよね。それで堪忍袋の緒が切れた経営側が監督個人を放流することにして、手元に残る METAL GEAR シリーズや SILENT HILL シリーズとかのブランド・イメージを守るために、もう何もしゃべるなという流れになったのなら、それはそれで納得できる動きだったなと思ったんです。小島監督を退社に追いやったことで責められることよりも、小島監督が無自覚に人間関係で炎上する巻き添えを食らって商品のブランド価値を失うことのほうを恐れていたという感じでしょうか。会社と元執行役員の揉め事なら、それほど一方的な構図にはならないし、経営をめぐって意見が割れるのはそれほどめずらしいことでもなさそうなので、対外的にフェアな言動に努めていれば、長引く炎上のリスクはないと判断して、腹を守るために背中で監督をめぐる批判を受けることにした可能性はあるかなとちょっと思ったんです。

新川さんの名前がすでに上で出ましたが、小島監督の独立に際して、彼についていったおなじみのスタッフさんも少なくないと聞いています。これも前回書いたとおり、彼の周りは女性スタッフがとても少なくて、私が見つけられたのは、現在監督の秘書として務めている Ayako さんぐらいでした。ゲーム制作者として、監督が約30年に渡って KONAMI で仕事をしていた間に、彼のそばで真っ当なキャリアを築けた女性クリエイターっているんですかね?

前回も書いたんですけど、性的魅力を特徴としている女性キャラクターに監督が暴力的表現を用いる傾向は KONAMI 在籍時から炸裂していて、むしろ退職する間際の METAL GEAR SOLID V: GROUND ZEROES から THE PHANTOM PAIN にかけて描かれたパスが一番顕著な例になっています。やっぱり私は、これが引っかかります。詳しくは前回、フラジャイルに関連して書き出しましたけど、一般的に身体能力が劣る女性への暴力って、ありのままの自分を受け入れられずに、自分を大きく見せようとする器の小さな男がよくやるんですよね。

小島監督の代表作と言えば、やっぱり今作よりも METAL GEARMETAL GEAR SOLID だと思います。敵と真っ向から戦わず、身を隠して戦闘を回避する戦術を立てるのが斬新で、ゲームの一大ジャンルを築いたと言われています。ゲーム要素としては、より幅広い戦術を自分の頭を使って組み立てられるパズルのような要素もあり、より大きな達成感を得る楽しみがあります。また、不要な争いを避ける殺さずの精神で、監督が掲げる反戦のテーマにも沿っていますが、逆を言うと真っ向から戦わない時点で、正攻法からあえて外れてちょっとこじらせているとも考えられます。

種類にもよりますが、野生動物のオスは、メスを含む群れの中で頂点に立って、群れのリーダーとなることで自分の遺伝子を初めて真っ当に残せるようになることも少なくありません。男性にはこうした野生本能の名残で、なにか社会的に目立つことをしなければならない、あるいは集団の中で傑出した人物にならないといけないと脅迫概念のように考える人が一定数いるようです。京王線でジョーカーの仮装をして火を放ち、刺傷事件を起こした犯人など、仕事もプライベートも充実させることができずに自棄になった人物が、どうせならと最後に社会的な注目を集められる犯罪に走る心理は男性に多く見られます。男性は本能的に、あるいは社会の同調圧力的に、何か一旗揚げなければならないという強迫観念に駆られがちです。

こうした男性的な価値観において、真っ向から戦わないということは、例えば少年漫画みたいな、誰が一番強ぇのか拳で決めようぜというような、男の子の遊びの延長にある本能的な社会の序列の決め方からドロップアウトすることを意味しています。正面から殴り合うと勝てないし、それだと面白くないから、暴力は粗野で野蛮だと主張して、自分が得意な土俵に切り替える苦肉の策であり、生存戦略でもあるわけです。それは自分が選択したフィールドなので、大きな集団の中でその価値基準を押し通すのは簡単ではありません。結果的に、人数が限られた社会で不意を突いてやらないと上手く立ち行かなくなります。

また、生殖の競争の報酬となる女性が登場すると、自分がどれだけ言い繕っても、本能的な価値基準を覆すことが難しくなってきます。人並みに社会性があれば、集団の中での身の振る舞い方や、性差にとらわれない個人との人間関係の構築で乗り越えられるものなんだと思いますが、社会性がない人間は、既存の社会のルールに馴染めないし、ルールを変える力もないし、馴染めない自分も受け入れられないという地獄に陥ります。前にもちょっと書きましたけど、小島監督の女性キャラクターへの暴力性は、この鬱憤が原因じゃないかなと私は考えているんですよね。それは和気あいあいとした温かな社会や、本能的な生殖を巡る競争から脱落してしまった孤独なオスの「なぜオレを受け入れてくれないのか?」という怒りです。

小島監督の場合はもっと言うと、同じオス同士の頂上決戦に持っていこうとせず、メスに鬱憤のはけ口が来ているところで厄介だと思うんです。この手の男性って、学生運動のように、自分が属する群れのトップ、つまり社会的リーダーである政治家あたりを相手に行動を起こすなら、まだ理解できるんですが、例えば握手会をせっせとしないとファンを獲得できないような隙の多いアイドルの女の子を狙うとか、京王線の事件のようにその場に居合わせた不特定多数を襲撃するにしても、逃げ遅れた老人、子供、女性みたいな、自分よりも身体的に劣る、明らかに狙いやすい人間をターゲットにするタイプも少なくないんですよね。女性キャラクターの物語を追っていくと、小島監督も根本はこっちのタイプじゃないかと思うんですよね。繊細で傷つきやすく、小心者で、自尊心が傷つくと、自分よりも劣る個体が不幸になる様を見て幸福感を補おうとするみたいな習性があるんじゃないかなと疑っています。不幸な人を見るために、自分で手を下すかまではわかりませんが、そういう不幸に落ちそうな人が目の前にいたときに、自分の感情を優先してあえて手を貸さず、人が落ちる様を内心喜々として見ているみたいなことはしそうだなと思いました。前回のサムも、フラジャイルに協力を求められたときは無反応だったのに、ダイハードマンには正義漢みたく彼女に全幅の信頼を寄せているように語っていました。この相手によって微妙に対応を変えるあたり、自分の言動が悪目立ちしないように巧みにターゲットを孤立させる方法を心得ているような印象を受けるんですよね。

また、父親の会社を引き継いだフラジャイルが最初から孤軍奮闘しているのも不自然だと指摘していました。家族経営って、うちは母方の血筋が小さな会社を営んでいるんですが、二代目以降にもなると、先代の時代から会社に貢献してきた親族やらベテランやらお局さんやらの自己主張が激しいんですよ。フラジャイルの周りにもきっと、父親と一緒に荷物を抱えて走り回って、フラジャイル・エクスプレスのビジネスを軌道に乗せた功労者がいるはずで、フラジャイルが会社に関連してなにか決断するとき、そういう人間が黙ってないと思うんですよね。でも作中の文書を読む限りでは、ヒッグスと事業提携したときにはすでに頼れる右腕のような存在はいなかったようです。孤立した女性って、洗脳しやすいんで、ハラスメントの傾向が強い男が好んでターゲットにするタイプなんですよね。家庭内暴力を起こすような男性が、まずターゲットとなるパートナーを親族や親友などから孤立させようとするのもあるあるな行動です。小島監督の作品って、絶対数が少ないっていうのもありますけど、だいたい最初から女はみんな異様に孤独じゃないですか? あとは傷ついて弱っているのも少なくない特徴かな。異性の友情を描けるほどクリエイターとしての技量がないって言ったら元も子もないんですけど、もともと孤独な女が獲物として好都合だから好きで、逆に集団でいる女が苦手だからはなから描こうとしてないんじゃないかという気がしてきます。

ここらへんの似たような思想を、KONAMI から退職する前に、当時身近にいた現実の女性、例えば同社で働いていたお気に入りの女性社員相手にも炸裂させてたりしないかなと、ふと思ったんです。で、その問題を KONAMI が火消しにかかって、当の本人は自分のコンプレックスとは向き合えていないので、なにが悪いのかいまいち理解してないみたいなオチもありそうだなって……あ、誤解がないように念のため書いておくと、これはあくまでこんな可能性もありそうっていう、私の頭を過っただけの架空の例え話で、事実には基づいていません。繰り返しになるんですが、私はこれを書くことで、実際に会ったこともない小島監督のなにかを貶したいわけじゃないんです。ただ、彼の作品をプレイしていると、どうしてもそれくらい考えてしまうぐらいの拭えない違和感があって、それがとくに女性キャラクターが登場するたびに顔をのぞかせるので、ここに書いてまとめておこうと思ったんですよね。

私は逆に今作のエンディングで、なぜそう多くのプレイヤーが涙するほど感動できたのか知りたいんですよね。結局あのエンディングが具体的に何を表していたのかというところから私にはよくつかみきれていないところがあります。それどころか掘り下げれば掘り下げるほど、私には上述の通り、監督の認知のゆがみみたいなものが感じられるので、こうやってプレイ日記を書きながら、できれば私の気にしすぎとか勘違いで納得できる解釈を手探りで探しているような状況です。誰か、あのエンディングの解釈の定説を教えてくれ。

ソビエト連邦の崩壊やコロナ禍の分断を予見したかのような物語を見ていくと、小島監督の作品は奥が深いと言うファンの主張はおおむね正しいと思うんですけど、こと女性周りの描写については極端に稚拙だと私は感じています。まるで厨二病をこじらせた非モテのオタクが妄想だけで適当に物語にぶっ込んだみたいな奥行きのなさが全体に見られるんですよね。それこそクリエイターが創りだした物語を見ているつもりで終盤まで行ったのに、実は昭和のオジサンが繰り広げる男子中学生並みの妄想を延々と見せられているだけだったことに気付いて、エンディングで思わずハッとしてしまうみたいな表現がしっくりくるぐらいです。

たぶん元来は繊細で、周りの空気も敏感に読んで危険をいち早く察知するタイプの人間なんじゃないかな。だから時代の先を読む能力もある、みたいな感じですかね。小島監督がどんな人物かを語るときに、自己主張が激しい人と言っても、誰も反論しないと思います。anan のインタビューもそうですけど、作品について語るインタビューだと思って読み始めたら、さながら「小島秀夫特集」だったということも多々あります。作中にもたびたび自らカメオ出演しているし、TV コマーシャルをはじめとした広告にも出るし、クレジットの名前もくどいほど表示されるので、同姓同名の小島秀夫さんが三人ぐらいいるんじゃないかと思うほどです。

自己アピールが強い人が自分の話をし続けると、多くの人は「それぐらいしないと中身がなくて、自分の魅力を訴えられないんだな」という印象を抱きがちです。心理学的にも、自分のことばかりを話す人は、自分に自信がない人と分析されるのが一般的なようです。小島監督も自分に自信を持てない小心者で、虚勢を張るぐらいじゃないと精神的な平穏を保てない人なのかもしれません。社会情勢をよく見て分析しているように、身近な社会でも自分を守るために、苦手なりに敏感にいろいろ察知しているけれど、真っ向から対処する体力や精神力、対人スキルがないので、なにか当たり障りのない言い訳を用意して逃げる癖が付いているんじゃないかな。それを言い続けるうちに自分自身も徐々に騙されるようになって、問題の認識すら危うい状態になっているけど、苦手意識が強い集団や女性との関係とかになると繕いきれなくなってポロッと出てしまう、みたいな感じかな。

ちょっと前に監督が Twitter で「なんかイケてる SF 小説ないかな」とオススメの作品を募るようなつぶやきをしたことがあったんですが、個人的に思ったのは、監督は好みの SF を読みふけるより、ラブコメとかの苦手そうなヒューマンドラマのジャンルを研究したほうが物語に厚みが出るだろうし、実際に人間相手にして経験積んだほうがいいんじゃないかなってことです。ラブコメって人によって好みがだいぶとあるジャンルで、私もどちらかと言うと自分から見ないタイプなんですけど、社会一般的な感覚を持っているかどうかとか、見る人の社会性が如実に試されるジャンルだと思っています。作品にもよりますけど、普通の人は普通に見れて、なにが面白いのかわからない人には一生理解できないみたいな壁があります。べつに時間を割いてまでは見ないけど、いったん見出すと面白いと思うっていうのなら問題ないんです。でも、そもそもなにが面白いのかわからないって言い出すタイプは、発達障害や共感性が極端に低いサイコパスの傾向があって、そういう脳機能っていう点で見ると、空気を読んだり、その空気に合わせて自分で迎合できるラインを自然と判断したりっていう高度な機能が求められる作品群なんですよね。なんか監督って、こういう感覚があんまりないタイプの人間なんじゃないかなと私は疑っています。正直、カイラル・アーティストの物語は、モーガン茉愛羅ちゃんのかわいさ以外に何を描きたかったのか、まったく伝わってきませんでした。

作中、いろんな女性像が描かれて、たまたま男性が好きそうな女、キャリアを築けない女、暴力を振るわれる女、自己犠牲を選ぶ女、不幸な女、性的搾取される女、そもそも存在感が一切ないその他大勢のモブ女みたいなのがいるんなら、それほど気にもならないんですが、小島作品の女性像は前回も書いたとおり、描かれる幅が毎回すごく狭いので、なにかを考えて作っているっていうよりかは、監督が個人のフェティシズムをもとに、脊髄反射だけでいいと思ったものを都度ブチ込んでいるみたいな印象がごまかせなくなっているように感じるんですよね。面白い物語を客観的に構築しているというより、主観の偏った考えをそのままぶち込んでうまく料理できていない感を強く覚えます。もっと言うと、その偏り具合というのが、上にズラズラ書いてきたとおり、個人の心温まる恋愛観とか、心揺さぶられるドラマじゃなくて、ちょっと感性を疑う攻撃性みたいな病んでいる部分や、ハラスメントをハラスメントと認識できないオッサンの感性みたいな部分が無自覚に露呈している感じになってしまっています。だから物語がおもしろいかではなく、作り手の精神状態が心配になるんです。作品全体を見ると、やたらと完成度が高い部分とのコントラストで、こうした稚拙な部分が悪浮きしてしまっているようにも見えます。

東部エリアについては先に述べましたが、今うちのサムが配達で走り回っている中部エリアも今のところ、ブリッジズの拠点から一般人のシェルターまで、窓口が全員男性じゃないですか。次のサム指名依頼で行く時雨農場でやっと旦那さんと一緒に奥さんが出てきて、その次がカイラル・アーティストの母娘、そして主要キャラクターのママーが出てくるといった感じですかね。コスプレイヤーも夫婦セットで出てくるし、ロックネはイベントが進むと担当者じゃなくなるし、女性一人でまともに出てくるのはスピリチュアリストとエボデボ学者ぐらいかな。ロボット工学者も該当しますが、彼女も小島監督が好きな子供とセットの母親像に分類できそうなんで、独立してちゃんとキャリアを築いている感じがするのはエボデボ学者ぐらいかな。日本は、ただでさえ女性の社会進出が遅れている欧米からさらに後れをとっている国なので、日本人としてはなじみ深い女性の透明人間感と言えるかもしれないけど、ここらへんもちょっと、ああ、昭和のおじさんが世界観をアップデートできないまんま考えをこじらせて作っちゃった物語だなぁという印象がするんですよね。流行に敏感な小島監督が、こういうところだけ認識が古いのは、おそらく彼個人のコンプレックスが関わっているからじゃないかっていうのが、上でズラズラ書いてきた説明です。Fallout 76 は前に書いたとおり、ちょっとやり過ぎだと感じたんで、こっちの感性もわがままなんですけどね。

何回か書いているんですけど、なにも男ばっかりだとか、女がいても特定の属性ばっかりだとかいうだけでこう極端な考えに走っているわけじゃないんです。小島監督の作品は、上にも書いたとおり、女性キャラクターに対する攻撃性など、いびつさが全体に見受けられます。これが不思議だし、怖いんですよね。なにが怖いかって言ったら、世界観のゆがみを平然となかったことにして描かれるいびつさが代わりに出てくるからなんですよね。彼が真面目にやればやるほど、作品がホラーになっていきます。

小島監督はホラーゲームについてインタビューで語ったとき「ちょっとズレているんだけど、パッと見には何がおかしいのかがわからない。そういうことをすると、頭が混乱し、見る人の恐怖を煽るんです」と述べています。これ、そのまんま彼が無意識に描こうとしている世界観のズレに当てはまると思います。彼の作品は、彼が自分のコンプレックスと向き合わなくて済むように構築されたファンタジーの世界なんじゃないですかね。言わば、庵野秀明監督が自分の内面と向き合って『新世紀エヴァンゲリオン』を作ったセラピーに通じるもので、自己受容を目指さない歪んだまま突き進むバージョンなんだと思います。こういうところに共鳴する熱心な小島監督のファンは、人間関係や社会の息苦しさとか、男らしさの自縛あたりで彼と悩みを共有するタイプとかかな。

自称怖がりの小島監督が FOX ENGINE を使って Silent Hills の製作に乗り出したきっかけは、本人の希望というより KONAMI 上層部の案がきっかけというふうに記憶しているんですけど、もしこの記憶が正しければ、その人はよく監督とゲーム作品のことを理解していたなと思います。こんだけ素でホラーに向いている人はなかなかいないと思います。女性への暴力表現も、ホラー作品ならうまく溶け込んでこれほど違和感を覚えることもなかったでしょう。正義を振りかざす物語や、人と人とのつながりみたいなキレイなテーマのなかに、おそらく無意識と思われるほど自然に、登場人物の明らかな属性の偏りや、執着や陰湿さを伴った特定の属性への攻撃性が見えるからこそ、異様な恐怖が際立つんだと思います。

いびつさという点で言うと、監督がずっと真面目な顔をして語っている反戦というテーマも私からすると意味不明なんですよね。METAL GEAR からずっと、監督の作品は戦争を描いているというのが私の認識です。そして作中たびたび、登場人物たちが戦争しか自分たちの居場所がないとか、戦うことでしか自分の存在意義を見出せないといったような趣旨のことを語ります。戦争を追体験して遊ぶゲームを作っておいて、反戦と言い張る理屈がよくわからないんですよね。上で取りあげた2019年のサンディエゴ・コミコンの「手っ取り早く金儲けをしたいならみんなをひとつの島に集めて撃ち合わせることだけど、ボクはそんなことしたくない」というバトル・ロイヤルもの批判についても、海外のゲーマーからは「ああ、そうだ。小島はただ銃で撃ち合うだけのゲームを作りたくないんであって、愛や気持ちを語らいながらお互いを撃ち殺すゲームを作りたいんだよ」という嫌味を言われていました。

知り合いはこのジレンマを、イギリス王室を批判して王室から離れることを決めたのに、母国に帰ってからもちゃっかり王室の称号を使ってセレブリティ・ビジネスを展開するメーガン妃に例えていました。あるいは、『それいけ! アンパンマン』や『しまじろう』が大好きな幼児が、そろそろお兄ちゃんやお姉ちゃんにならなければいけない年齢になって、その作品を好きと言ってしまうと幼い印象が拭えなくなって困ってしまったときに、自分より年下の弟や妹を相手に、彼らのために知識を与えるという名目で一生懸命萌え語りを繰り広げ、最後に「はい~! この『アンパンマン』の問題について考えて~!」とドヤ顔で語るような感じかな。本当に反戦を訴えたいなら、戦争を描くにしても、非暴力と不服従をモットーにしたガンジーみたいなシミュレーションとか、外交の場で金に物を言わせたり、工作員になって敵対国の要人同士をくっつけたり、口先だけの外交術でいかに戦争を起こさずにやり過ごせるかみたいな仕掛けとか、あるいは戦争が起こることでどれだけ経済的、文化的損益がもたらされるかがわかりやすく表されているゲームデザインとか、もっといろいろ、ほかにアイデアがあると思うんですよね。そこから面白くするのがゲーム・クリエイターの手腕なわけですし、それができないんならバトル・ロイヤルの様式を生み出して人気を築いたクリエイターに文句を言うのは筋違いだと思います。

不思議なことに、監督はあえて操作キャラクターにも、戦争の裏で糸を引く重要人物を持ってきたがりますよね。これって、本当は力による競争に身を置きたい心理以外の何物でもないと思うんですよね。つまり、戦争という題材は利用するだけで、本当はその戦争という混乱した状況をあえて用意することで生じる、もっと別の心理的かつ社会的報酬に興味があるだけなんじゃないかなというふうに感じてしまいます。そして、「反戦がテーマです」は、それを体よく覆い隠す方便でしかないんじゃないでしょうか。作品作りの方向性をきちんと見ていくと、なんなら興味のなさすら感じられます。

今は現実でもロシアによるウクライナ侵攻で、冷戦以来の第三次世界大戦のリスクが危ぶまれているところですが、ゲームは人と人との争いを描く題材が多いのもあって、このニュースに反応するゲーム・クリエイターも少なくありません。

だから私も KOJIMA PRODUCTIONS の公式アカウントや監督個人のつぶやきに注目していたんですけど、私が見た限り、特別この戦争に彼らが注目している様子はありませんでした。監督は相変わらず自分が好きな小説や映像作品の情報をつぶやき続けているし、公式も特にこの戦争を取りあげることはしていませんでした。

もちろん普通のゲーム製作者なら、細かいことは言いません。一般人でも有名人でも、募金をしたからって言いふらす必要はないし、ゲームは現実逃避の遊びでもあるから、ファンを気遣って戦争みたいな世知辛い話題をあえて振りまかないというのは理にかなった行動だと思います。でも小島監督は、普段から戦争ものをあえて選んで作品作りを続けて、「反戦がボクのテーマです」と言い切っていたわけですよね。本当に普段から戦争や平和に関心があるなら、今回みたいな第三次世界大戦に発展しそうな有事のときに、通常ならなんかせずにはいられないだろうし、なんかできないなら、なんか言わなきゃやってられない心境になるのが自然じゃないかなと、私の感覚なら思うんですよ。なんかこの言動の温度差に違和感を覚えるのは私だけですか。

ちなみに、世界的に見ればウクライナ支援を名乗り出ているゲーム製作会社は少なくなくて、私はそういったゲーム会社の作品やウクライナに拠点を置くゲーム会社の作品をいくつか購入しています。配信の許可が確認できれば、そのうち Twitch でもやる予定です。今回はその中に日本で一番入りそうな KOJIMA PRODUCTIONS の作品が入らなかったことに地味にショックを受けています。あれだけ「反戦」とか「つながり」とか言ってたのに、具体的なアクションを起こすどころか、気の利いたコメントすら出さないんだなと正直思ったんですよね。どうせゲーム愛好家として応援するなら、ダメなものはダメときっちり声を上げて行動を起こせるクリエイターを応援したいと私は考えています。

あと、うちは毎回広告の収益が出るとどこかに寄付すると決めているので、今回は在日ウクライナ大使館が特設した寄付用の口座に、このブログの収益を前倒しで1万円ほど寄付しています。これは毎回このブログを読んでくださる皆さんからの寄付と同義です。とってつけたようなお礼になりますが、更新が滞っている間も、古い記事に「いいね♥」してくださるみなさん、ありがとうございます👍

人と人との衝突という点に話題を戻すと、METAL GEAR SOLID からちょっと世界観が変わった今作でも、敵対するキャラクターとしてテロリストが登場していて、所属組織とのぶつかり合いが描かれています。さらに言えば、できれば巻き込まれたくないと考えているようなサムをわざわざ戦いの場に連れ出す展開になっています。私がゲームをプレイする様子を後ろで見ていた家族が以前に、ミュールやテロリストのモデルは、戦争から戻っても社会復帰できずに路上生活を余儀なくされている退役軍人かなと言っていたことがありました。Director’s Cut で主人公のサムは、歴代のスネークたちのステルス戦術を象徴する段ボールに身を包んで、結局しっくりこず使用をやめる様子を見せています。でも、本編では相変わらず銃が当たり前のように手に入って、道々出会うミュールやテロリストの脳天に弾丸をブチ込んで命を奪うことができます。なんなら敵対していないフリーランスのポーターも殺せます。でもその銃火器を支給するブリッジズに反逆することはシステム上できません。加えて、ミュールやテロリストに歩み寄るゲーム要素も一切用意されていません。やっぱり反戦を意識しているとは考えにくいんですよね。METAL GEAR から続く監督の反戦メッセージは、どういうカラクリで反戦になっているのか、私はいまだに、誰か詳しい人に説明してほしいと願っています。

戦火の中でしか自分の居場所を見つけられない同じ穴のムジナ同士の戦いを描いて、これが反戦のメッセージになるなら、さしずめ戦いの中にしか居場所を見つけられない戦争野郎が、開き直って戦争ビジネスをしたり、本能のままに戦いを仕掛けたりして、それに対して戦いの中にしか居場所を見つけられないまた別の戦争野郎が便乗して戦争を始める両者 win-win の構造になると考えられます。武器商人のビジネスとなんか違います? そこにある正義は、オレもお前と同じように悪いが、オレは自分が悪いと自覚しているので、お前よりはまだマシだといった理屈になり、その上で自分よりも悪い無自覚な悪を拳で殴って追い詰めるという物語になりませんか。結局、戦争は悪いことだと諭す側の操作キャラクターも、好き勝手悪事を働いて正される側がセットで存在する前提がないと正義の押しつけができなくなりませんかね? ちょうど作り手がほかの誰かのやり方を否定しないと自分のやり方を正当化できない悪習を持っているのと同じように感じます。

誰かを悪者に仕立て上げないと自分の正義を語れないというのも、人間関係でトラブルを起こしがちな人のちょっと屈折した心理あるあるですよね。小島監督、自分を正当化するために、問題児になってくれるタイプの人間を身近に作ろうとする傾向もあるんじゃないかな。自分が作りたいゲームがあったけど、プログラマーが力不足だから作れなかったとか、それを言うと現場の雰囲気が悪くなってみんな働きづらくなるよっていうようなことを自己弁護のためにケロッと口にしそうな雰囲気がちょっとあります。それで人から嫌われて、苦手意識が強くなって、でも自分の欠点は認めたくないから、自分が優秀だから周りと合わないという言い訳で自分に言い聞かせて、学習することなく50代になって、とうとう仲間から会社を追い出されたって考えると自然だと思うんですよね。

NHK のテレビ番組『ゲームゲノム』で、小島監督は今作の棒と縄の解釈を語る際に、今までは攻撃性や拒絶の意味合いがある棒ばかりだったので、もっと相手を受け入れることやつながりを重視する縄をテーマにしたいというようなことを語っていました。ちょっと、棒は悪いことで、縄はいいことであるという偏見がかかりすぎていると私は感じました。私がしっくりきた解釈では、棒も縄も、衆生救済が根本にある不動明王の剣と羂索みたいなものと考えていました。反戦に絡んだ戦争論もいまいち掘り下げが足りない気がするし、この棒と縄も善し悪しで大きく分けるのは早計というか、強引じゃないかという気がします。

続けて、今までのゲームは棒ばかりだったので、縄のゲームを作ったというようなことも言っていたので、余計に何を言いたいのか私には理解できなくなりました。うちのブログは Sim City など、多くのシミュレーション・ゲームを生み出したウィル・ライトさんの作品からゲーム日記を始めたので、棒ばかりってなんだという疑問しかなかったんですよね。子供の頃に好きだった思い出のゲームで言えば、『アップルタウン物語』みたいな、今となっては何が面白いのかわからない作品も女の子同士でやってましたし、『テトリス』とか『Dr. マリオ』とかのパズルゲームとか、あとボードゲームから作られた『人生ゲーム』なんて子供が集まったときの定番の遊びだったし、PC から移植された『サラダの国のトマト姫』なんて、あっち向いてホイで平和に戦っている世界観でした。少なくとも銃を撃つ METAL GEAR より、よっぽど棒要素が少なかったと思います。

そもそも暴力と言うと聞こえは悪くなりますが、戦争などで振るわれる棒の力がそんなに悪いものとも私は思えないんですよね。人間が文明を築いた今では重要性が下がった感は否めませんが、もともと力は獲物を狩る力であり、生きるエネルギーを得るために必要不可欠で、長い間、厳しい自然環境で生物が生き延びるために無くてはならない要素だったわけですよね。外敵から自分と仲間を守るための力であり、自然を生き抜く力でもあります。戦争のメカニズムも、人同士のつながりと同じように、いい面と悪い面が複雑に作用し合った結果だと考えられます。棒の力にもいい面と悪い面があるから、スポーツや少年漫画のような物語には人の心を引き付ける魅力があるし、そのよさを通じて本能的な欲求を遊びで健康的に発散させることの何が悪いのかよくわからないんですよね。対戦ゲームだって、やってるうちに仲良くなることは普通にあるでしょ。逆にその欲求を押さえつけて、こじらせて、屈折させて、弱者や女性の虐待行為として暴発させる幼稚な言動のほうが問題じゃないのかと思うんです。

棒を悪いものとして見ているなら、いいものとして持ち上げすぎていると感じているのが、K2西中継ステーションにサムが配達したスマート・ドラッグのオキシトシンです。オキシトシンは、とくに女性の妊娠および出産に大きく関わっている神経伝達物質で、分娩時の子宮収縮や、母乳を出すための乳腺まわりの筋収縮などを起こします。また、新生児に授乳することで母体での分泌が促進され、母子間の絆を強化する作用も持つと言われています。母子間だけにとどまらず、親しい人やペットとボディタッチすることでも分泌が促されるとされ、外部から追加して摂取すると、多幸感がもたらされるほか、個人の感情認識や共感力が向上し、コミュニケーション能力がアップする効果が期待できると見られています。諸説ありますが、近年の研究では、自閉症の症状軽減にも効果があったと一部で発表されています。本作では、「ストレス抑制効果があるスマート・ドラッグ」、小説では「精神安定剤」として登場しています。

しかし、脳科学者の中野信子さんの受け売りですが、研究者の間では、身内びいき、イジメ、差別、偏見を助長する効果もあるという負の側面もよく知られています。有名なものに青シャツと黄シャツという実験があって、名前の通り、被験者を青いシャツと黄色いシャツを着た2グループにわけ、たびたび所属するチームの色を意識するように色で呼びかけたりするそうです。その過程で、被検体は同じ色の仲間を優遇したり、自分たちのチームの方が相手よりも優れているという感情を持つようになったりするそうです。これを「内集団バイアス」と呼びます。オキシトシンには仲間を作って絆を強める作用に加え、自分とは違う裏切り者を身内からあぶり出す報酬としての作用もあります。

オキシトシンは母子の絆を強めますが、子連れの野生動物は得てして凶暴で冷徹なものです。母親は自らの生命を危険にさらして出産と育児をします。その中で自分に融通してくれる仲間は確実に身近に引き留めておけるようにすること、さらにすでに形成された仲間グループの中でも、自分の敵となる者をあぶり出して安全を確保することが必要不可欠だったわけです。女性が生涯を通じて友達を一番作りにくい時期は、出産後のママ友だと私は考えています。誰でも友達作りに苦労する人はめずらしくないと思うけど、インターネットを検索して、そんな些細なことで仲をこじらせたのかとか、そんな変な友達がいたのかとか、そこまで人間関係悪化するものなのかとか、物珍しい感情的なエピソードがゴロゴロ出てくるのはママ友の体験談が多いと私は勝手に思っています。それは子連れの母という属性がいかに脆くて、いかに用心深くならざるを得ないかということ、また友達なんていらないと周囲から安易に距離を置くこともできない状況であることも大きな要因なんじゃないでしょうか。

人間は言葉をしゃべり出したときから、ずっと自分の話ばかりしているという研究があるらしいです。人が言葉を使って仲間に訴えているのは、自分がいかに無害で、群れに貢献しているかという情報が主であると言います。井戸端会議は女性によく見られる無駄な行動としてたびたび槍玉に挙げられますが、彼女たちは男性よりも身体能力が劣るが故に、生きるための情報を道具として仕入れ、同時に群れの仲間にその恩恵をお裾分けすることで、裏切り者としてつるし上げられないように情報戦を繰り広げていると考えられます。女性差別的な言動をする男の情報も、目立たないところでしっかり交換されていますよね。小島監督の自己アピールが強烈なのも、自分は味方であるという必死のアピールなのかもしれません。群れに利益をもたらさず、自分勝手な行動ばかりしている者が裏切り者として情報共有され、つるし上げられているときも、つるし上げる側の脳内で、その報酬としてオキシトシンは分泌されています。おそらく KONAMI から小島監督が離れたときも、身近な人たちとのコミュニケーションや気遣いよりも自分の作品作りを優先するような孤高のクリエイターだったんなら、どれだけ味方だと口先でアピールしたところで、一部の社員の脳内で同じことが起こっていたと考えられます。

Twitter にも書いていたんですけど、人間が棒を使い始めたのは、戦争より狩猟が先ではないかと私は考えています。それは自然の脅威を退け、同時に生きるエネルギーを手にするための道具です。それから家畜を飼うようになって、土地に定着する農耕文化が盛んになっていき、土地の価値が高まることで領地争いの戦争が始まるようになったというのが、私が認識している大筋の人類の歴史です。そのときに狩猟の道具である剣や弓、猟銃といったものが対人兵器として本格的に持ち出されていった感じですかね。トーマス・ロバート・マルサスの『人口論』でも、人が争いあうのは食料をはじめとする物資の奪い合いが根底にあると分析されています。今ウクライナをめぐるロシアと欧米の対立が注目されているのも、もともとウクライナがロシアと欧米の真ん中に位置する緩衝地帯として重要な役割を果たしてきたからのはずです。

それと並行する形で、人類は狩猟で食料を確保していた時代からすでに、適当に足元に転がっている石を手にして、あるいは切り立った崖の上に誘い出して、あらゆる手法で気に入らない仲間を始末してきました。これも中野信子さんのお話にあったんですが、例えばアラスカ西岸に住むエスキモーのユピック族には、仲間を分類する言葉の中に「クンランゲタ」というものがあるそうです。それは平気でウソをつく、人をだます、人の所有物を奪う、女性を襲う、人を傷つけても相手の気持ちがわからないなどといった、いわゆるサイコパスの特徴を備えた人物を指します。エスキモーやイヌイットと呼ばれる北方の狩猟民族には、厳しい冬を乗り越えるために男性陣が居住地からしばらく離れ、チームを組んで獲物をたくさん狩りに出かける習慣があるらしいです。みんなが仲間のために厳しい狩りに出かけている間、自分はそれについていかず、居住地に残った女性たちを襲って自分の遺伝子を残そうとする自己中心的な男性などが、このクンランゲタに分類されていました。彼らの異常性は先天的なもので、あとからどれだけ理由を説明して𠮟責しても、あるいは説得を試みても直らないので、人気のないところでひっそりと仲間に殺されていたそうです。オキシトシンは自身のグループから、この仲間と協力せず自分だけ出し抜けに利益を得ようとするクンランゲタをあぶりだすための報酬として機能し、今でも現代人の脳に残っていると考えられます。

つまり人類の争いというのは、大まかにわけて、縄張り争いのような自分が所属するグループ全体の対外的な争いと、グループ内部のメンバー間で繰り広げられる内在的な争い、2種類があると考えられます。これに照らし合わせると、小島監督の言っていることが、棒と縄の区別はもちろん、棒の性質、それもとりわけいい側面の掘り下げが足りていない印象を受けます。それどころか棒と縄の認識自体もあやしい可能性があると私は疑っています。

ゲーム冒頭で引用されている安部公房『なわ』の物語でも、棒と縄は善悪による表層的な描き分けはされていません。棒は少年たちが無邪気にスクラップ置き場で子犬をいじめる際に手にしているし、縄は川から突然姿を現したずぶ濡れの姉妹が最初から手にしていて、その縄で子犬と自分たちの父親の首を絞めてトドメを刺していきます。棒が悪いものを退けるためのものなら、少年たちがいじめていた子犬は外敵やクンランゲタの比喩であった可能性もあります。犬は忠誠心や愛の象徴としてよく描かれますが、キリスト教では大食いなどの欲深さを意味することもあります。足を悪くする共通点から、視点主の男の分身のように作中機能している可能性もあるかもしれないと私は以前に書いていました。対して、三途の川を連想する川から縄を持って現れる姉妹は、姉が縄を持ち、妹がある種の仏像やモナリザのような引きつった微笑を浮かべていることから、衆生救済のためにあの世から遣わされた超常の存在である可能性もあるかなと書いていました。そう考えると姉妹が最初から異様な存在感を示していることや、貧困が理由で親が無理心中を考えているような状況でも金銭に対する執着は一切見せないこと、さらに自分たちの命を奪おうとする父親に対して中盤はそれほど敵意を見せておらず、最後の父親殺しが突拍子もなくおこなわれていることの説明がつきます。すなわち、縄による死は痛みや欲などといった今生の煩悩からの解放だったとも解釈できる余地があります。小島監督は学生時代に同作を読んだときに、姉妹が金欲しさに父親を縄で絞殺したと考えていたようです。ここらへんにも、彼の女性に対する攻撃性が出ているなと私は感じていました。また、デス・ストランディングに際して、絶滅体のアメリが死は孤独といったネガティブなイメージを口にしている点も、衆生救済のような仏教の考え方とは少し違っています。もっと言えば、作中よく言及されているエジプトの死生観とも異なります。考えがちゃんとまとまっていないなと私が感じるのは、こういう世界観に詰めの甘さが残っている点も理由の一つになっています。ちょっと諸々、自分の都合のいいように考えすぎだと思うんですよね。

くわえて、オキシトシンの負の側面があまり掘り下げられていないように、個人レベルでの人と人との不和がなぜ日常的に起こるのかという掘り下げもいまいち足りていない気がします。小島監督の作品は世界的な戦争をモチーフにしていて、それこそ食料や土地の奪い合いに端を発した大きな争いはよく描かれているどころか、物語の主軸に据えられていました。オキシトシン系の内在的な争いで言えば、先天的な素質で優劣をつけられた問題児のイーライ、のちのリキッド・スネークの存在や、マザーベースに合流したときに兵士たちから差別的な扱いを受けるクワイエットあたりの物語が該当するかもしれません。こちらは戦争というテーマに比べて控えめです。さらに女子供という、狙いやすい層がターゲットにされているわかりやすいパターンです。

戦争というテーマから少し離れた今作では、このオキシトシン由来の不和が、意図的に排除されていると言っていいほどほとんど描かれていません。人と人のつながりの二面性が描かれていると私も書いてきたんですが、今作で描かれているのは、人とつながると不自由も増えるというところまでで、不自由を飲み込めなかった者がどういう末路をたどるのかまでは描かれていません。もっと言えば、オキシトシン由来のイジメは、別に正当な理由があって起こるものとは限りません。学校なんかの集団社会の場に行けばいくらでも例が見つかりますが、なんとなく態度が気に入らないからという理由でつるし上げが始まることだって日常的にあります。今の日本においては、世界大戦のような国の威信を賭けた戦いより、こっちの日常的な戦いの方の方が身近に感じる人が多いと思うんですよね。でも、そのギスギスとした空気が物語で描かれることはありません。これって、監督自身が人付き合いの面倒くささを察知した時点でうまく距離を置いて逃げてしまうので、あまり人と辛抱強く付き合ってこなかったからじゃないかなと思ったんですね。引き出しがすごく少ないから、物語として描きたくても描けないんじゃないでしょうか。

人と人をつなぐ物語なのに、サムは物語の後半で仲違いしたジャンク屋とカイラル・アーティストの仲を取り持つこともできず、ただ運び屋の仕事を淡々とこなしているうちに勝手にカイラル・アーティストが行動を起こして物語が進展します。ここらへん、身近な人との関係ときちんと向き合わず、全然違うことをしたがる逃避の心理がありそうな気がするんですよね。前回クワイエットがなぜかミッションをこなしていくだけで主人公を好きになっていくので、男性視点のご都合主義過ぎる印象が強いと書いたのとちょっと似ています。例えば家庭内の問題を全く顧みないで、とにかく自分は外で働いて生活費を稼いでおけば万事上手くいくと信じ込もうとする昭和のお父さんみたいな思想が残っていそうで怖いんですよね。二人が仲直りすることにも物語上の重要なメッセージが込められているとしたら、小島監督の共感性というか、主観と客観の頭の切り替え方とか、そこらへんの感度が私とまったく違うんだと思います。二人の物語は、私には勝手に進行していくご近所さんのご都合でしかなかったんですよね。だって、最初にカイラル・アーティストを運んだっきり、その後はたいした関与もしませんし、女に去られたジャンク屋も自分の意見をろくに口にしませんし……。こう考えていくと、小島監督は、自分がある程度関与しないと当事者意識は芽生えない、というか、あんまり他人の関係について第三者がしゃしゃり出てはいけないし、しゃしゃり出たいならもっと当事者として苦労を買って出るべきだという感覚が私より薄いんでしょうね。人付き合いは極力避けていって、でもなんかおめでたいことがあって、そこにちょっとでも自分が絡んでいたら、そのおめでたいことはオレの功績だって思える思考回路でもしているのかな。

これは私の推測だと、何度も繰り返し念押ししているんですが、上の方で小島監督は日本の物語みたいな、自分に近いテーマは苦手意識が出るから描けないんじゃないかと書いたのと同じで、オキシトシン由来の仲間内の抗争が、彼自身苦手だから詳しく描けないんじゃないでしょうか。複雑な人情の機微を描いた争いを描けるほど、見識も深くないし、それで面白い物語を作れるほどのクリエイターとしての腕もないから、戦争はダメですといったわかりやすい優等生の意見や、棒と縄を表層的な善悪で区別する思想から掘り下げられないんじゃないかな。たぶん、機微はめちゃくちゃ聡く察知できるけど、それに対処できる社会性がないタイプなんじゃないかなと思うんですよね。苦手だから余計に逃げて成長しないまま50代になってしまった人じゃないかな。KONAMI からの独立劇も、KONAMI というゲーム製作者の集団が、小島秀夫という空気を読めないクンランゲタを仲間の輪から追放しただけの話だったんじゃないのかなって、ちょっと考えたんですよね。

掘り下げがいまいち足りないんじゃないかというのは、繰り返しになりますが、監督の女性観もそうです。女性への異様な加虐性が爆発したのはパスだと上で書いたんですけど、ほかにも裏切り者のスパイみたいな、倫理観が欠如した黒幕として描かれたり、なんやかやコイツが悪いというポジションに女性キャラクターが配置されることも少なくありません。ローズマリーは雷電を裏切っているし、オタコンは義理の母親から性的虐待を受けていて、義理の妹からも不義の関係を迫られています。今作のブリジットとアメリも絶滅体だし、カイラル・アーティストの結婚に反対して登場する親も母親だけです。『なわ』を読んだときに、姉妹が金欲しさに父親を殺したんじゃないかと考えた思想は、おそらくまだ彼の中で健在だと思います。

METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN が公開されたとき、クワイエットの露出度が高すぎるという批判を受けて、そういう指摘があると思っていたといった返答を監督がインタビューでしていたんですよね。「作品をプレイしてもらえれば、彼女がどうしてあんな格好をしているのかわかります」と言っていたので、私は深い意味があると思って彼女の物語を追っていました。

確かに同作をプレイすると、彼女があの格好をしている理由はわかります。でも、誰かの手に、それもクリエイターを自称するような人間の手によって作られた作品なら、ああいう設定のキャラクターが、あんなドラマに巻き込まれることで、どういうメッセージを発したいのか、受け手がどういう気持ちになるように、あるいはどういうことを考えてほしくてあんな設定にしたのかとか、そういうところまで深掘りしたくなるもんだと思います。クワイエットは残念ながら、それがまったくわからなかったんですよね。なので、半裸の女性キャラクターを登場させたいから、その理由となる設定を物語に絡めて頑張って考えたぐらいの認識しか持てませんでした。

敵兵に捕えられたクワイエットが陵辱されそうになりながらも返り討ちにして、着せられた服を脱ぎ捨てて武器を両手にドドーンと決めポーズを取るシーンはよかったんですが、そもそも彼女があの格好をしなければいけなくなったのは、まず主人公の暗殺という任務に失敗して、死ぬほど重症の火傷を負ったからですよね。その後、生物兵器のように改造されて、半裸じゃないと生きていけない体質になっています。しかも彼女も小島作品あるあるの最後に追い詰められて自己犠牲を選ぶ女です。

こういうところって、例えば、SEX and the CITY に登場するサマンサのような豪胆な女性キャラクターが、私は着たい服を着るから外野は口出しすんなみたいなセリフを声高に叫ぶだけで十分事足りる主張だと私は思うんですよね。女だ男だという問題ですらなくて、公序良俗に反しない限り、当人が決めて実行していることに意味があって、外野がアレならいいコレならいいと勝手に決めて話を進めること自体が無神経だしナンセンスです。クワイエットの物語には男にそうならざるを得ない状況に追いやられた前提と、なんだかんだ足掻いて生きていたのに、最後はあっさり男のために自己犠牲を選ぶ結末があるので、結局女の言動を逐一支配したい作り手のゲスな男性心理しか見えませんでした。オレにはお前を死に追いやれるほどの支配権があるというような、『鬼滅の刃』風に言い表すなら生殺与奪の権をすべて自分が握っている優越感に浸りたい心理で、これもやっぱりハラスメントの問題をよく起こす器の小さな、自分を大きく見せたい男が好きなパターンなんですよね。お気に入りの女性アイドルを自分の番組に呼んで、野球拳で服を脱がないともう芸能界の仕事が来ないようにするぞと脅す番組プロデューサーと何が違うんでしょう?

昨年のハロウィンの時期に、ホラー映画に関連して、最近の作品は女性への加虐的嗜好よりも、逆にフェミニスト的な視点で描かれることが増えているという Vogue の記事を Twitter 上で小島監督がリツイートしていたことがありました。これも意味不明なんですよね。たぶん自己暗示が進みすぎて、自分が何を考えて何をしているか、客観視する認識能力が鈍化しているんじゃないかなと疑いたくなります。

ホラー映画は確かに女性監督の作品が取りあげられる機会も増えてきていますし、フェミニスト的な視点も増えてきていると思います。記事の内容を読めばわかりますが、女性あるあるな悲劇的な状況でたくましく生き残る女性の姿にはそれだけでメッセージ性があります。そもそも命が脅かされるような状況になったときに人がもがいて懸命に生きようとする姿には心動かされるものがあるし、そういう物語には性差も特に関係ないと思うんです。

でも小島監督の作品でそんな女の執念って描かれたことありましたっけ? これも前回いろいろ書きましたけど、クワイエットは自己犠牲だし、パスは内臓の代わりに爆弾を体に詰め込まれて絶望の中でヘリコプターから飛び降りるので、半分虐待、半分自暴自棄ですよね。METAL GEAR SOLID のメリルも物語の主役である男性の選択肢次第で死んだような演出になるし、今作のアメリもなんか勝手に納得して消えて行くでしょ。ママーは瓦礫に生き埋めになったままお腹の子と一緒にもがき苦しんで死んでいるし、かろうじてフラジャイルが不幸の果てにやっとエンディングで小さな希望を見つける感じですかね。あの肌だと老い先短くて、死を意識するごとにヒッグスのことを思い出しそうで不憫でならんのですけど。

私はなんとなく、小島監督がこのキャロル・J・クローバーの説に目を付けたのは、たくましい女性キャラクターで何か心揺さぶられる物語を作ろうと思ったというよりかは、不幸な女性キャラクターを量産できる大義名分になるからっていう安直な動機なんじゃないのかなと思うんですよね。つまり、METAL GEAR SOLID でお得意の手札にしてた「反戦」と同じカードですよね。部下に無理難題を押しつけて過労死に追いやったり、家で奥さんをボコボコに殴ったりしといて、裁判みたいなちゃんとした話し合いの場に引っ張り出されると、僕は相手のことを思って、逆境を乗り越える力を身につけて、より高いレベルの人間になってほしかったみたいな意味不明なこと語り出すただのハラスメント男の特徴が出ているなって感じたんですよね。本当の下心を隠すために、いまいちピンとこない表層的な言い訳をつなぎ合わせて優等生の物語を作っているから、コンセプトが精錬されてなくて物語自体がまどろっこしくなるし、登場人物の心理描写もなんか屈折してるし、エンディングも誤魔化さざるを得ないから「で、なんだったの?」というツッコミを避けられない展開になっているんじゃないかな。

フェミニズムの代表みたいなホラー映画と言えば、私は『エイリアン』が真っ先に頭に浮かぶんですけど、あの映画は主人公のリプリーが強い女だからこそフェミニズムとして成り立つ前提があります。そういう観点では、リプリーが男に媚びたり、自分の意思決定で妥協を余儀なくされて終わったり、何か辱めを受けたりといった展開はナンセンスなわけです。そのナンセンスに近いことを、小島監督は今作でしていると思うんですよね。サムの育ての母を演じたリンゼイ・ワークナーさんは、海外ドラマ『バイオニック・ジェミー』でサイボーグ化された諜報員として活躍する主役のジェミーを演じていました。小島監督はこの作品の大ファンで、だからこそ憧れの彼女に今作の出演をオファーしたとインタビューで語っていました。

そうやって完成したブリジット・ストランド大統領は、確かに強い女性リーダーのポジションにあるキャラクターですが、物語が始まったときはすでに死にかけで、ずっと息子のサムに北米大陸をつなぎ直す役割をお願いして死んでいきます。自分が率先して何か行動力を見せる役割は持っておらず、プレイヤーに等しい男性キャラクターに弱った姿をさらしてずっとお願いお願いと自分の望みを聞き入れてくれるように請い続けます。そして、憧れの女優に自分からオファーしておいて、小島監督は彼女を若返らせた姿であるアメリのほうを物語のキーキャラクターとしてより多くのシーンに登場させています。SEX and the CITY が最新の続編、And Just Like That… でありのままの50代の女性の姿を描いているのと真逆を行く姿勢です。

なぜブリジットが若返ることになったのか、なぜ若返った姿であるアメリのまま活動することになったのかは、作中の設定としては説明付けされていますが、小島監督の意図まではつかみきれません。もちろん製作の都合もあるでしょう。でも、少なくとも母親役にオファーした女優を若返らせて、その人工的に若返らせた方をヒロインのように扱う選択肢があって、その案が最後まで残ったのは事実です。だからクワイエットが半裸の理由と同じように私の中で処理されています。つまり、いくら憧れの女優でも年増に用はないし、かつての最強の女性キャラクターが死に瀕して困りながらお願いと自分に頼んでくる状況に興奮するってことなんじゃないでしょうか。もし私の読みどおりなら、こんな失礼なことないでしょう。そんな姿勢を適当に正当化して仕事しているから所属する会社からもついに見放されることになったんじゃないでしょうか。

ちょっと前に007の最新作、No Time To Die を映画館まで見に行ったんですが、ボンドガールのレア・セドゥさんが年相応の女性キャラクターを演じていて、どことなく安心感を覚えたことがありました。同作はダニエル・クレイグ演じる主役のボンドも一線を退いていたり、007のナンバーを引き継いだ女性の後任者もすでにいて、多様性に富んだ仲間と一緒に作戦に取り組んだりと、主演の男性の年齢もありのままの自然さが取り入れられた内容になっています。セドゥさん演じるマドレーヌ・スワンは史上初の2作続けて登場するヒロインなんですが、初回に彼女がボンドガールに抜擢されたときから、監督は「新人には任せられない」物語上の重要人物で、「経験豊かで成熟した女性」として「完璧」な彼女を選んだとインタビューで語っていました。DEATH STRANDING が作られたときも、彼女はすでに30代になっていました。でも DEATH STRANDING では、壊れ物のお嬢さんとして描かれているので、なんか無理して若作りしている違和感を覚えたんですよね。それはおそらく、社会一般的な女性像や年齢の考え方云々というより、小島監督の50代男性の視点や感覚が前面に出た価値観が基準になっているからだと思います。『美女と野獣』をやっていたもっと若い頃ならまだともかく、今の彼女を一人の成人した人間としてちゃんと見ていないし、彼女が築いてきたキャリアも軽視しすぎていると思います。

スタジオジブリの宮崎駿監督が映画『千と千尋の神隠し』を製作する前に、60代の男性と18歳の少女が敵対の末に恋愛関係になる『煙突描きのリン』という作品のプロットを練っていた逸話があって、60代の男性に自分を投影する気だと理解した鈴木敏夫プロデューサーが、このままでは物語の構造が弱いまま年長の男性が10代の女の子に手を出すギョッとするような作品ができてしまうと悩んで、そのときたまたま見た若い世代の映画作品を、やっぱり若者が若者の感覚をしっかり反映して描く若者の作品は違うと褒めまくって監督を説得したらしいです。彼の意見を聞いた宮崎監督は、今まで自分が描いてきたイメージボードを破いて、これはダメなんだろと悟って『千と千尋の神隠し』の製作に移行していきます。たぶん、小島監督の周りには、こういうそばにいてうまいこと助言してくれるタイプの仲間がいないんじゃないかなと私は心配しています。監督、Twitter でも平気で女性アイドルの写真を事務所に飾ってキャッキャッしている写真とか無邪気に公開してたりするじゃないですか。これは決して、環境が悪いと言っているわけではなくて、おそらくこの環境が自業自得じゃないのかなというのが、上でズラズラと書いた理由です。KONAMI 時代から彼自身が自分を最優先して周りへの最低限の気遣いすら怠ったり、プライドを守るために身近にいた人を切り捨てたりしてきたツケなんじゃないかなという印象を拭えません。

確かに、時代の寵児というか、突き抜けて成功したエリートにはいびつで孤独な人が多いです。スティーブ・ジョブスという人の難しさを示すエピソードはインターネット上にごろごろ転がっていますし、志村けんさんは最期まで独身を貫いていました。イチロー選手はカレーのエピソードがあるように、偏食で有名です。小室哲哉さんも何回か結婚と離婚を繰り返しています。彼らは自分の仕事に多くのリソースを割いてきて成功した仕事人間です。自分の好きなもの、心奪われるものに没頭した結果、ほかのところに気が回らないから、自分でも気付かないうちにひずみができているという感じだと思います。自分の持ち味となる尖ったところがない限り、凡人が彼らのいびつさだけをマネしたところで意味はありません。ただの本末転倒です。

小島監督はどうかという点を考えると、反戦のテーマにいまいち説得力がなかったり、新しい配達のゲーム要素が私にはいまいち完成されている手応えじゃなかったり、科学的に検証の余地がある堅苦しい用語だけをやたらと安直に多用していたりっていうあたりを見ると、私が偉そうにできてないと言えるわけじゃ決してないけど、言うほど真摯に作品作りに取り組んでいるわけじゃなさそうっていう印象が私の中でだんだん大きくなってきています。むしろ彼の場合は、自分を大きく見せたいという願望が先にあって、そのために利用するゲーム作りになっていて、そもそも著名人と一緒だというだけで孤独だなんだのネガティブな点を正当化するあたり、順番が逆のような気がするんですよね。

アメリも、ブリジットも、フラジャイルも、サムより強力な能力を持っているのに、みんなサムの名前を呼んでお願いし続けますよね。あの話の構造も、私にはよくわからないんですよね。やる気のない男に構うより、自力でさっさと問題を片付けた方が簡単だし、早くない? 納得のいく答えがないので、とにかく持ち上げられてチヤホヤされたい男性心理の表れじゃないかとしか言えなくなっています。

それに、主人公の育ての親という点で、ブリジット・ストランド大統領は、本作の開発中に亡くなった小島監督の母親とも結びつけられる存在だと考えていました。その母親を若返らせて、ピーチ姫といったお姫様扱いしているのは、いささか気味が悪いというのが正直な感想です。前にも書きましたが、親族の異性と一線を越えてしまう展開はオタコンにも見られた設定なので、なんかこだわりがあるんだと思います。ちょっと理解が追いつきませんが、母親との関係になんか問題でもあるんじゃないかなとしか言えないんですよね。余計なお世話だと思うんですけど、反戦みたいな社会一般的に大きな問題をうわべだけ扱うより、先に自分の中のこういうこじらせた問題と向き合ったほうが、もっと深い、人間味あふれる作品ができそうだと思います。

オキシトシンは監督と軋轢が報じられた KONAMI 側の人間が出していた脳内物質じゃないのかという話を上でしたんですが、オキシトシンをスマート・ドラッグとして供給しているのはブリッジズでした。そのオキシトシンのよさをメールで一推ししていたのもブリッジズ所属のバトンさんです。ということは、サムが今所属しているブリッジズが監督にとっての KONAMI を表しているってことかなとちょっと考えたんですよね。サムは妻を亡くしたあと、養母のブリジットと対立してブリッジズと距離を置いていますが、物語の最初にもう一度頼み込まれて、抵抗の末にブリッジズ所属に戻っています。監督も KONAMI に戻りたかったのかな。それもお願いされて渋々応じてあげるような形で。

KONAMI と小島監督の詳しい関係は、インターネットにウワサ話が出ているだけで、詳しい事情はまったくわかりません。しかし監督自身が独立を望んだというより、KONAMI から離れざるを得なかったというのは状況からして間違いないようです。この点で、サムとブリッジズの関係とは少し違います。物語が始まる前に育ての親との確執があって出奔したあと、また物語の冒頭で相手からのラブコールを拒否しきれず、もとに戻ることになったサムとは対照的に、現実で小島監督と KONAMI が一緒に何かしそうな気配は今のところありません。

うちのブログの記事でも取りあげたんですが、一時 KOJIMA PRODUCTIONS の広報のかたが、SILENT HILL を代表するキャラクターの一人、三角様を匂わせる画像を“silent”というキーワードを用いて海外向けの Twitter アカウントに投稿したことがあります。SILENT HILL は言うまでもなく小島監督が KONAMI 在籍時にシリーズ最新作を開発していたシリーズですし、その最新作は彼が KONAMI を去ることでお蔵入りになってしまいました。私はこれでお蔵入りになった SILENT HILL シリーズ作品の開発が再開したら嬉しいし、揉め事は少ない方がいいので、これを機に両者の関係が改善すればいいのにと書いていました。でも結局このお知らせは KONAMI とのコラボや類似のホラー作品の発表でもありませんでした。

代わりに KONAMI はカナダのゲーム会社、Behaviour Interactive が開発した Dead by DaylightSILENT HILL のコラボレーションをしています。このことから、なんとなく両者の溝はまだ埋めがたく、くわえて、なんとなくラブコールを送っているのは KONAMI ではなく小島監督の方ではないかという気がしてしまいます。

結局この DEATH STRANDING も、いろいろ厳しいこと、つらいことであふれている現実から小島監督が逃避するために作り上げた都合のいい世界なんじゃないでしょうか。この仮想世界では、現実の弱い自分を見つめる必要もありませんし、虚栄心モリモリで作るぐらいが似た感性の人に共感されてちょうどよくなります。理想の人物が実際にいるかのような世界観はもちろんのこと、振り向いてほしい相手が自分を求めているかのような物語を作って、安心して陶酔できますし、気に入らない相手がいれば、それらしい大義名分を用意して打ちのめすことができます。同様にそれらしい大義名分さえ用意できれば、お気に入りの女性を半裸で生活させたり爆発させたりすることも容易にできますし、手が届かない大女優をひざまずかせることだってできます。育ててくれた母親が自分に欲情する物語だって作ることができます。結局そうやって作品を作ってきたのが小島秀夫という人なんじゃないのかなとちょっと思うようになりました。私としては、もはやクリエイターかどうかさえ怪しくなってきました。自分がほしい緩めのポルノを運良く会社のお金で作れていただけで、30年ほど調子に乗った結果、そのラッキーな立場を失っただけでは……?

最初にこのゲームをやったときは、荷物をひたすらコツコツ運ぶゲーム要素がいまいちわからなくて、エンディングまでの物語も理解しがたいと思ってたんですけど、冒頭に描かれた人と人がつながることの善し悪しの二面性とか、コロナ禍に通じる先見性とかに物語の奥深さがあると感じたので、エンディングの腑に落ちない感じも、自分の理解不足からくるものだと思っていたんですよね。もちろん今でも理解できているなんて微塵も思っていませんが、最近になって、反戦みたいな、優等生ぶってそこからまったく掘り下げられていない監督のテーマとか、優等生ぶっているわりにはしぶとく残っている昭和のオジサンの時代遅れの感性とか、自分以外が作ってきたものは全部棒だと言うような傲慢で無知な発言とかを知るにつれて、これ以上の奥深さを期待してはいけない人だったかなと、彼の作品に期待するのをいったんやめるようになりました。物語を一定以上掘り下げられないのは、おそらく自分の向き合いたくないコンプレックスとか、不都合な何かがあるからじゃないかな。ものすごく残念なので、どうか私の勘違いであってほしいと願いながらプレイ日記で考察を続けていきます。

追記 追記

俳優の木村ほうかさんが性加害で訴えられるスキャンダルが今注目を集めているんですが、『日刊ゲンダイ DIGITAL』に今回報じられているような性加害に走る男性の心理を分析する心理学者の富田隆氏の説明が載っていました。

人間関係を構築することができない人といえます。好意があっても信頼関係を築くのではなく“言うことを聞かせる”ことでしか関係を築けない。つまり、力しか信じておらず、男同士の人間関係も上下関係のみでしょう。一方的に押し付けるので後輩には好かれない。そのくせ親分には下手に出るというタイプ。こういう人の周りには同じ価値観で動いている人たちがいます。たまたま木下さんが有名だったから話題になっているだけで、他にも同じような価値観の男性がいると考えられます。

『木下ほうかに“性暴力”被害の告白続々! 長年繰り返した余罪と行動心理を専門家が解説』

上の方でダラダラ書き連ねてきましたけど、私が今のところ小島監督について思い浮かべている人物像は、そのまんま上の引用文のような感じです。本当、そのまんまです。あまりにもそのまんまなので、別件の心理分析ですが、そのまま引用させていただきました。

何度も書いてますが、私は小島監督個人と会ったこともありませんし、じかに彼の言動を分析したことはありません。あくまで彼の作品を掘り下げていって、覚えた違和感などに説明をつけていくとこういう人物像にたどり着いたという感じです。これが私の考えすぎならいいなって言っていたんですよね。ただ、前回も書いたフラジャイルの描写などを見るに、ミソジニーの傾向は少なからずありそうだなと考えています。

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