新型コロナウイルスの感染者数がちょっと落ち着いてきたころに映画を観てきました。家で配信サービスを使って適当に家族と目についた映画やドラマを観るのも好きなんですけど、映画館は目の前の作品に集中して一人の世界に浸れるから好きなんですよね。映画館へはもっぱら一人で時間を見つけて行く派です。そのほんの一時だけ、すべてのものを忘れていろいろリセットできる気がします。

映画館の『ハニーボーイ』展示スペース

この時期の映画館は大変そうですが、手指消毒用のアルコールも設置されていたし、みんなマスクしてるし、そもそもしゃべる場じゃないし、座れる座席もひとつ飛ばしだったので、あんまり危険を感じませんでした。これを言い出すと、家とか職場のほうがよっぽど感染リスクが高い場所だと思うんですよね。みんなウイルスにかこつけて、望まない人との接触を忌避したがる傾向があって、そっちのほうが目的としてすり替わっている節すら感じるときがあるので、こういう感情に巻き込まれがちなお商売はちょっと不憫だと思います。

今回観たのは、10年ほど前にハリウッド映画に引っ張りだこだった俳優シャイア・ラブーフの自叙伝的作品『ハニーボーイ』です。ブレイクしたのがかなり若いころだったので、なんとなく年上だと思っていたんですが、ちゃんと調べたら年下でしたね。どんだけ若かったんやと思った話です。才能あるのに、もったいない。

あらすじ

公式サイトによるあらすじは以下のとおりです。

大人のふりをしていた、12才の自分に会いに行く――

若くしてハリウッドのトップスターに躍り出たオーティス(ルーカス・ヘッジズ)は、撮影に忙殺されるストレスの多い日々の中で、アルコールに溺れるようになっていた。2005年のある夜、泥酔して車を運転し事故を起こしたオーティスは、更生施設へ送られる。そこで PTSD の兆候があると診断され、「まさか」と驚くオーティス。原因を突き止めるために、今までの思い出をノートに書くようにと言われたオーティスは、過去の記憶を辿り始める。真っ先に思い出すのは、父のこと。
10年前の1995年、子役として活躍する12歳のオーティス(ノア・ジュプ)は、いつも突然感情を爆発させる前科者で無職の“ステージパパ”ジェームズに、振り回される日々を送っていた。そんなオーティスを心配してくれる保護観察員、安らぎを与えてくれる隣人の少女、撮影現場の大人たちとの交流の中で成長していくオーティスは、新たな世界へと踏み出すのだが──。

https://gaga.ne.jp/honeyboy/

シャイア・ラブーフが過去を振り返る物語

シャイア・ラブーフはディズニー・チャンネルで活躍した子役で、そのまま若くして人気ハリウッド映画に立て続けに出演し、とくに『トランスフォーマー』シリーズの主役であるサム役でブレイクしてからは、売れっ子ハリウッド俳優としての地位を確立していました。いっぽうでプライベートは荒れていき、『トランスフォーマー』が公開されたころから、店舗に無理やり押し入って逮捕されたり、喫煙が禁止されている場所でタバコ吸って逮捕されたり、出廷を命じられたのにバックレたり、酒気帯び運転で事故を起こしたりして、軽犯罪のオンパレードになっていきました。よって、実力派の売れっ子俳優でありながら、お騒がせセレブのレッテルも同時に貼られていました。その後、『トランスフォーマー』シリーズも、2011年の『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』を最後に出演できなくなり、彼はハリウッドの表舞台から姿を消していきます。

タイトルの「ハニーボーイ」とは、シャイアの幼少期のあだ名のことです。子役をしていた彼はだれよりも愛されるかわいい男の子でしたが、事故を起こしたことをきっかけに強制的に投じられた更生施設のセラピーで、自分の幼少期が今に響くほど問題だらけであったことを初めて自覚します。今回の映画の主役はシャイアではなく「オーティス」と名付けられてはいるものの、幼い彼の経験にもとづいた自叙伝になっています。シャイアはもともとセラピーの一環として脚本を書いたあと、そのまま成人したオーティス役を演じるつもりだったようですが、監督アルマ・ハレルの強い要望で、幼少期の自分が向き合う父親の姿を演じています。ハゲ上がった惨めな男を演じる姿を見て、さすが腐っても鯛だと私は思いました。

観ようと思ったきっかけ

子役あがりの売れっ子俳優が、やがて素行が荒れてお騒がせセレブとなり、そのまま落ちぶれて表舞台から消えていくのは、わりとよく耳にする流れだと思います。代表作『ホーム・アローン』などのヒットで天才子役と呼ばれたマコーレー・カルキンも、両親のトラブルによって私生活が荒んでいき、出演作よりゴシップ欄を賑わせることのほうが多くなっていきました。けっきょく彼は引退を余儀なくされています。

映画『ターミネーター2』で衝撃的なデビューを果たしてから、美少年ともてはやされたエドワード・ファーロングも、急に大金を稼ぎ出した彼の親権をめぐって周りの人間が揉め出すと、薬物とアルコールに溺れて、女性とのトラブルも頻繁に起こすようになりました。けっきょく彼は自身の出世作である『ターミネーター』シリーズ後続作品の続投を見送られてしまいました。アーノルド・シュワルツェネッガーやリンダ・ハミルトンといった過去のキャストが再集結したシリーズ35周年記念の最新作『ターミネーター:ニューフェイト』でも、彼一人だけお声がかかっていません。

表層的な部分だけをさらうと、シャイアの物語ももはやめずらしいケースではなく、わざわざ取りあげるほどの話でもないように見えます。でもちゃんと個別に見ていくと、なぜ子役あがりの成功者はこうもわかりやすく凋落するのか、シャイアはほかの俳優となにが違うのかといった点がちょっと見えてくるんじゃないかなと興味がわいてきました。

父に届かないささやき

でも、けっきょく、人間が転けるきっかけって、普遍的な問題だと思ったんですよね。人気俳優でも、一般人でも、そこらへんは一緒なんだなと感じました。彼は親の愛情を得られない子供で、その空虚感を大人になっても乗り越えられませんでした。たぶん、だれにもできないと思います。幼少期の家族の問題って、シャイアだけに限らず、問題だと自覚すること自体がかなり難しいものだと私は認識しています。それだけ自分の魂にも染みついちゃうんですよね。だから問題解決の糸口を見つけることすら難しいものです。運よく大きな問題がない家庭に生まれられなかったらそれが最後で、あとは残りの人生をかけて、自分の問題として向き合って死ぬまでなんとかしていくしかありません。荒療治でも、こうやって向き合う機会ができた彼は、まだラッキーなほうだったのかもしれません。映画が終わったあとは、なんとかこれで立ち直って、また俳優として、あるいは自分の才能あふれる感性をいかして、映画関係の仕事で花を咲かせてほしいなと思いました。

シャイアはオーティスであり、ジェームズでもある

父ジェームズ

お前に分かるか? 息子に稼いでもらってる俺の気持ちが。

ジェームズ

オーティスの父親ジェームズは、“ステージパパ”として生活しています。その正体は母親が投身自殺して心にトラウマを抱えた退役軍人で、子役の仕事を順調にこなす息子の収入に頼りっきりのうだつが上がらない無職の父親です。ステージパパ以外にできる仕事と言えば道化ぐらいで、まだ幼い息子にその収入でもかないません。満足にお金を稼ぐために考えつくのは、違法薬物のもとになる植物をずる賢く育てる方法ぐらいという典型的なダメ人間です。感情コントロールに大きな問題を抱えており、前科があるうえに、たびたび幼い息子に対しても自滅的な怒りをぶつけてきます。

この映画を観て、「こんな父親はイヤだ」というのはとても簡単です。こんな人間になりたいと思うヤツはそうそういません。本人だって同じで、だからこそ自責の念に密かにとらわれていて、自分を否定する者や、自分の立場を脅かす者を過剰に攻撃してしまいます。離婚したオーティスの母親が我が子のために寄越してきた保護観察員を、父親としての役割を死守するために、我が子から引きはがしてプールに突き落とし、前科があるせいでオーティスの海外での新しい仕事に同行できないとなると、オーティスにその怒りをぶつけて腐り始めます。

本当に助けが必要だったのは、父親のジェームズのほうでしょう。彼も望んで自殺する母親を持ったわけではないし、退役軍人になったわけでもないし、好き好んでトラウマを抱えたわけでもありません。軍人になったときも、結婚するときも、息子が生まれるときも、なにかしら前向きな希望を持っていたはずです。母親が置き去りにして自死するような子供でも、これでマシな人生になるはずだと考えていたはずです。彼こそだれかに抱きしめられて愛を実感し、だれかの助言を受けて自分の問題と向き合って、真っ当に生きる方法を知るべき人物です。一生道化で終わりたくないのは、本人も同じです。もっと自分をよくしたいとだれよりも思って、もがいていたはずです。

虐待された子は、親になってから虐待するって言うのは簡単だけど、日本にだって、ジェームズと似た人間はたくさんいます。日本には軍役がないので、お国にこき使われて、死んで当たり前の暴力に日常的にさらされた挙げ句、一生もののトラウマを抱えて惨めに生きることはそうそうないかもしれませんが、家族の自殺や不倫で家庭が崩壊した人、学校でイジメを受けて落ちぶれた人、就職に失敗して引きこもりになった人、ブラック企業で精神をやられた人、家庭内暴力で一人親になってしまった人ぐらいならごまんといます。みんななにかしらよくなると思って、新しい仕事を探したり、新しい人と出会ったり、結婚したり、子供をつくったりします。そこでうまく立ち直れなかった親に育てられて、問題のある家庭で育たざるをえなかった子も、見えないだけで、そうめずらしくない存在のはずです。子供は家庭の問題を隠したがるし、親の問題を自分の問題と同一視して正当化したがるものです。そうして自分のなかの普通が、世間一般の普通から乖離して、どんどん感覚が狂っていきます。大人になってからも慢性的な居心地の悪さを覚えたり、ここぞというときに落ちぶれる選択肢を無意識に選んだり、得られなかった愛情を求めて親と似たタイプのダメ人間と一緒にいようとしたりします。

ジェームズが「息子に食わせてもらっている俺の気持ちがわかるか?」と素直に口にしたときの追い詰められた感情は、本当に底辺まで落ちぶれた人間にしかわからないと思います。また、その父親に「息子に食わせてもらっている俺の気持ちがわかるか?」とたずねられたときのオーティスが返す「お金を渡さないと出てくだろ」という言葉には、家庭内のハラスメントに辟易した人間独特の疲れを感じました。こういう感覚は、問題がない家庭で育った人にはなかなか通じにくいもので、理解してもらえないものだと思います。

一時、インターネットで、夫婦ゲンカが悪化すると、子供がバカをしてその場の空気を和ませようとする現象を取りあげて、子供に気を遣わせる虐待だと指摘されたことがありました。オーティスは母親と親しげに電話で話すだけでも横から父親にとやかく言われ、離婚した母親と直接話したがらないジェームズに代わって、電話口で両親の罵り合う言葉を伝える役割までしていました。いわば、言葉のサンドバッグです。さらに優れた子役だったオーティスは、母の言葉を父に伝えるときは母を演じ、父の言葉を電話口の母に伝えるときは父を演じるという気の利いたことまでしていました。

オーティスは確かにジェームズから殴られているけど、有無を言わさず突然殴りかかられる典型的な暴力タイプの虐待には見えません。どっちかと言えば、心ない言葉を日常的にかけられたり、空気を読んで都合のいいように立ち回ることを強いられているハラスメント系に見えました。私が虐待のオンパレードだと感じた作品に『プレシャス』があるんですが、あっちに比べると、まだこの作品には加害者側の心境を察する余地が残されている気がします。

ただ、体にわかりやすいアザやキズができるわけじゃないので、こっちの虐待のほうが理解されにくいんですよね。家庭内の問題って、外部に助けを求めても、なかなか外から踏み込めないところがあって、落ちるところまでいったん落ちるしかない現実もあったりします。だから加害者側が妙に知恵が回ると打つ手がなくなります。下手に被害者本人が被害を訴えると、同情を誘おうとしているだけなんじゃないかと勘ぐられたり、親子なんだからちゃんと話し合えば解決するよと楽観的にしか見られなかったり、不幸の比較論になって、それはまだ虐待じゃないの一言で片付けられることだってあります。だって、この世知辛い世の中で、よその子をわざわざ助けたいと思うほど心の余裕がある人は少ないですもん。こんなにひどい目に遭う前に、外に助けを求めればいいのにって、自分も助けてあげられたのにみたいなトーンですごく優しく心配されるのは、実際に虐待死した子ぐらいじゃないかと私は思います。この中途半端な飼い殺し状態で生かされるのはけっこうつらかったでしょうね。

父に怒鳴るオーティス

オーティスは惨めでもなんでも、けっして誇れない男でも、自分の父親がほしかったんだと思います。普通の親子の交流をして、家族の絆を確かめたかったんでしょう。そうやって親の愛を実感できれば、自分が存在する理由を当たり前に受け入れることができました。作中でも親に言われるがままの子供から成長して、必死で父親に自分の考えを訴えようとしています。父親のなかに自分の居場所を作ろうと必死です。そのほとんどが高圧的な父親の前では妄想に終わってしまいますが、追い詰められると涙ながらに訴えるようになります。そして、暴力で返されてもがき苦しんでいます。

いっぽう、父親のジェームズにも男としての意地があって、自分の壊れかけの心を取り繕うのに精一杯で、息子のことなんて考えている余裕がありません。普段、言葉で息子を威圧しようとしているのに、言い返されて手が出るのは、痛いところを突かれて言葉だけでは言い返せなくなっているからです。息子より女を優先する描写がたびたび入るのは、おそらく地に落ちた男の自信と、注がれることのなかった母親の愛情を女に求めているからでしょう。父親としての威厳や男としてのプライドを保つことに必死です。それは息子のオーティスでは天と地がひっくり返っても与えられないものです。しかし、ジェームズはオーティスを不幸にしたくて虐待しているわけではありません。自分に余裕がないあまりに、空回りしているだけに見えました。それは大人になったシャイアも同じです。人はまず自分を幸せにできないと、ひとを幸せにすることができません。この父子は自分に染みついた目に見えない負の感情に振り回されて、つねに枯渇して、消耗しています。

更生施設で父のことを思い出したオーティスは、数年ぶりにジェームズに会いに行っています。子役時代に住んでいたモーテルは、娼婦も住んでいる典型的な労働者階級の住み処です。ジェームズはオーティスの手が離れたあともそこに住んで、道化として働き続けていました。道化の姿をして、自分の映画を撮ると言った息子に「かっこよく撮ってくれ、ハニーボーイ」と魂が抜けた笑顔を見せて言います。ジェームズは現実を見据えることも、低所得者層から抜け出すこともできませんでした。オーティスには、まだ挽回してハリウッドで大成するチャンスが残されています。私はシャイアにそのチャンスをつかんで、子役出身の役者が落ちぶれるジンクスを跳ね返してほしいなと思いました。それは虐待された子は幸せになれないというジンクスを跳ね返すことでもあります。

ほぼノア・ジュプくんの映画

今作はシャイアのためのシャイアによる映画ではありますが、表向きな部分は全部、ノア・ジュプくんのために用意された映画だったんじゃないかと思うほどの印象を見終わったあとまず受けました。ものすごい、なんというか、あの思春期の神聖さがこれでもかというほど、きちんと昇華されています。

ノアくんはイギリス出身の子役です。10代半ばですでにヒット作の常連になっており、かつてのシャイアのように天才子役の名をほしいままにしています。こう言っちゃあれだけど、シャイアのようにはなってほしくないところです。子役で比較的真っ当に成長したのは、ハーレイ・ジョエル・オスメントくんだと私は思っています。酒気帯び運転で逮捕されてたり、大麻所持してたりで、やんちゃしたゴシップもちゃんとあるんですが、両親がわりとしっかりしていて、仕事量をコントロールしてきちんと大学も卒業していますし、大きく目立つ役どころがなくても、きちんと卒業後も俳優の仕事をして食べていけているようです。なにより大きなメンタル崩壊を起こしていません。外見の劣化がたびたび取りあげられますが、そういうのはまた別問題ですからね。人並みの生活で、バランスとりながら芸能の仕事を続けられるって、素晴らしいことだと思うんですよね。

HONEY BOY

上でちょっと触れた『プレシャス』もそうなんですが、虐待を取りあげた作品になると、観る側はその結末に、未来につながる明るい展開を求めるところがあります。でも現実だと、そうスカッとなにかが変わる爽快感はないものです。この作品も、淡々と山もなく、谷もなく、気がついたらエンディングになっているのである意味リアルです。虐待によってねじ曲がった感覚が染みついてしまった子は、大人になってからも、ずっとそのねじ曲がり具合と向き合って奮闘するしかありません。そもそも生きることは、育った家庭環境にかかわらず、苦行に例えられるぐらいツラいことです。シャイアにとって、この作品も、これから闇を這って自分と向き合う戦いを続けるうちの通過点でしかなく、これが公開されたからなにか問題がひとつパンと消えるほどのお気楽なものではないはずです。そこに他者が娯楽を求められる余地はありません。

ある意味、ノアくんの神聖さすら漂う純真無垢な姿こそ、この映画を明るく照らす娯楽になっているようなところがあります。最初はこの持ち上げようにちょっと違和感がありました。虐待されるほうって、少なからず自分が悪いからじゃないかと考える傾向があるんですよね。そういう心理に追いやって、どんどん貶めるのも虐待の加害者の傾向ですし、無垢な子供と言えど、追い詰められるうちに実際にどんどん汚い存在になっていきます。例えば『プレシャス』では食費を親からもらえずに食い逃げしていたりします。シャイアも掘り返せば、犯罪とまではいかなくても、だれかを意図的に不愉快にさせたり、八つ当たりで物を壊したりということを、キャリアの成功で爆発する前から小出しにいろいろやっていた可能性があると思います。

でも、いろいろ考えて、この映画はこれでいいのだと思えるようになりました。この映画は、親との関係で十分すぎるぐらい苦しんだ男の子のセラピーのために作られました。そこに本人の負の感情をさらに刺激するようなことを暴露させてなんの意味があるんでしょうか。まだいたいけなノアくんに己の姿を重ね合わせることで、満たされなかった幼い自分を肯定してあげられるぐらいじゃないと、この映画は意味がないと思います。ジェームズもオーティスも、素直に自己肯定できないから、得体の知れない怒りをずっと抱えていたわけです。自分が悪かったのかと悩んでいる人間をさらに責めるのは野暮というものです。付け加えると、成人したオーティスは久しぶりに再会した父に、復讐も、なにかを償えと迫ることもしていません。彼はただ父を許し、父がくれた痛みに執着することをやめようとしていただけでした。父を許して痛みを手放すことは、傷ついた自分自身を許すことでもありました。

私は、苦しんだ人間に幸せになってほしいと思います。