安部公房『なわ』
デスストの冒頭で引用されている安部公房の『なわ』を読んだ感想です。
画面の明るさやら、誕生日の入力やらを済ませると、やっとオープニングムービーの幕開け――と思いましたが、その前に物語のコンセプトを示唆する他作品の引用文が駆け足で入るのでした。
引用されているのは安部公房の『なわ』です。昭和35年に発表された作品らしく、新潮文庫から出ている『無関係な死・時の崖』という文庫本に収録されていたので注文して読んでみました。途中、仔犬が虐待される描写があるので、そこら辺は薄目でところどころ読み飛ばしているんですが、短い話だったので、何回か読み返してみました。一見すると、とりとめもないような、あるいは突拍子もないというか、示唆に富んでいるのか、あるいはそんなに意味もなく思い付いた要素を突っ込んだだけなのか判断に迷う話です。
物語は頭もはげ始め、リウマチで足をやられた62歳の男が自分の小屋にあけた穴から外の鉄くずが転がるスクラップ置き場をのぞき込むところから始まります。そこには子供たちがどこからともなく現れてイタズラをしていくので、男はなんとか追い払う術を見つけようとしていました。番人の男が空けた壁の穴は、子供を追い払うためにあけたものでしたが、穴を活用して練った作戦はことごとく失敗に終わります。しかし男はそれでも穴をのぞき込むことをやめられません。
あるとき、いつものようにスクラップ置き場に現れた少年たちはそこで仔犬をいじめ始めます。男は怒りを覚えるのですが、穴をのぞき込むだけでなにか行動を起こそうとまではしません。しばらくしてから、今度は近くの川を渡って姉妹と思しき二人の少女がずぶ濡れでスクラップ置き場にやってきます。仔犬をいじめる少年たちに怖じ気づく様子も見せず、少年たちから話を聞くと、ボイラーの缶から出てこない手負いの仔犬を、姉が手に持っていたロープで引っ張り出そうとします。
仔犬がいよいよ窮地に追い込まれそうなところで、男は悪態をつきながら近くの川沿いに出て立ち小便を始めます。そこで自分と同じように塀の節穴からなかを覗く男を見つけます。そののぞき男に詰め寄ると、姉妹の父親だから二人をとめるためになかに入れてほしいと頼まれます。そのころ姉妹は仔犬をボイラーの缶から引っ張り出し、首をロープで絞めて殺そうとしていました。その光景の異様さに、男は父親をなかへ入れてやるのでした。
父親と姉妹の会話を聞くと、どうやら父親は二人の娘を抱えながら貧困に喘ぎ、一家で無理心中を考えているようです。姉妹は死にたくないと、家に連れて帰ろうとする父親に対して抵抗を続けます。やがて姉が100円を持っていることがわかり、父親は自分の底が抜けた靴を買ったことにして、代わりにその100円を渡すように娘の説得を試みます。その100円を元手に競艇で当たれば、今日も死なずに食いしのぐことができるというわけです。父親は100円を受けとると娘たちをスクラップ置き場に置き去りにして、裸足で国道を歩いて競艇へ行ってしまいました。
残された娘たちを不憫に思ったのか、男は100円をやるからあんな父親は放っておけと話しかけますが、娘たちは父親がもしかしたら儲けて帰ってくるかもと言って相手にしません。男の視界に入ったときから口を引きつらせて薄ら笑いを浮かべていた妹に、男が理由を聞くと、妹は生まれつきの顔だと言ってボロボロと泣き始め、男を置いてスクラップ置き場の中央を突っ切って帰ろうとします。しかし、ボイラー缶のそばで海の音がすると言いだし、なかをのぞき込んで「海が見える!」と興奮気味に姉と話し始めます。男が姉の手に百円玉を押し込んでみても、彼女たちの関心はその幻の海から移る気配もありませんでした。
その夜、父親が眠る家に帰ってきた二人の姉妹は、熟睡する父親の首の周りにロープを巻き付け、片方の端を柱に結びつけると、二人でもう片方の端を引っ張り、父親を絞殺してしまいます。父親の枕の下には競艇で儲けたらしき数千円が置いてありましたが、娘たちはそこから100円だけを取り、父親から買った古靴を枕元にきちんとそろえて返します。
そして最後に、Death Stranding でも引用されている「なわ」と「棒」の説明文が差し込まれています。
Death Stranding では、作中の表現、とくにヒッグスとの戦闘あたりを見るに、おそらく棒は広義に銃まで含めた武器を表していると考えられます。悪いものを遠ざけるための暴力的な道具です。これは、同じくこの作品で象徴的な人間の手のひらにおいて、握りこぶしにすれば人を殴って遠ざけるものになるという拒絶の表現にも共通すると思います。
対して、縄は善い空間を引きよせるものであり、人とつながろうと伸びる開かれた手のひらに共通しています。ですが、実際に『なわ』を読むと、棒と縄の判断が難しいことがわかります。姉妹は自分たちを殺しかねない危険な父を遠ざけるために縄を使い、その前にも腕ならしとでもいうふうに仔犬も殺めています。仔犬はいずれ殺されるかもしれない自分たちを投影した姿かもしれません。BT の手のひらだって、けっきょくはつながることで大爆発という破壊と破滅を引き寄せます。
そもそも姉妹の姉が水をしたたらせて持ち運ぶ縄が象徴的に描かれているのに対し、最後に縄と対比して説明される棒の存在感はかなり薄くなっていて、いきなり湧いて出た感があります。
ほかの作品を読んでみても、この人の作品はこういう突拍子のなさをあちこちで感じます。きちんと構成されているように見えて、いきなり現れる要素があって、それが微妙にズレているような違和感を覚えます。でも、これがうまく計算されているんでしょうね。これに関しては、ホラーゲームの Silent Hills から Death Stranding の制作へ移行した際に小島監督がインタビューで「人間を怖がらせたいなら、普通の感覚からちょっとズレたことをするといい」というような旨の話をされたことがあります。ホラーというわけではありませんが、安部公房の作品も、いきなり脈略のないものを乱暴に突っ込んで物語を展開することで、なんとも言えない不気味さや、それを逆に理解したいと思わせる引力のようなものを合わせ持つようになっているんじゃないかなと思いました。
サムが使う縄も、荷物の梱包用という名目がありながら、ほぼ戦闘用となっています。息の根までは止めないあたりがまだ良心的ですが、善い空間を引き寄せるというのは、素直な解釈では当てはまらないと思います。サムの縄は本格的に第二次遠征隊となる際に、ママーによる装備品の説明でロープではなく、より作品の内容に寄せた「ストランド」というルビが振られています。ストランドはアメリも説明しているとおり、人と人をつなぐものでありながら、活用形によっては座礁したり、打ちひしがれたりと意味に幅が出る言葉です。なんともそろっているようでそろっていない、ほころびが見える理論のようで、本当にそうかと疑心暗鬼になっていろいろと考えたくなる余地があるものです。
追記:棒と縄について再考察
精神科医の名越康文先生が Death Stranding の登場人物を体癖論から分析する YouTube 動画で、棒と縄の考えは、密教に伝わる不動明王の倶利伽羅剣と羂索に由来するものだろうという指摘がありました。
不動明王が右手に持つ倶利伽羅剣は、人の根本的な煩悩である貪(必要以上のものを求める欲)、瞋(敵愾心)、癡(真理に無知なこと)の三つの煩悩を打ち破る剣だと言われています。これらの煩悩は三毒と呼ばれ、人間の諸悪や苦しみの根源とされています。不動明王は人々をこういった悪いものから解放するために剣を振るいます。
反対に、左手に持つのが羂索で、もとは狩猟用の縄ですが、仏教では欲に溺れる人間を引き上げたり、人を惑わす恐ろしい魔物を縛りあげたりするために使われることから、衆生救済の象徴になっています。そう言えば、サムは左利きですね。
棒と縄の概念がこの不動明王が持つ剣と縄なら、私の解釈がちょっと変わります。縄はかならずしも「善いもの」を引き寄せるためのものではなく、悪者を懲らしめたり、人を助けたりするために使われます。その目的は真の救済です。
ということは、『なわ』に登場する姉妹は救済のために三途の川から遣わされた存在だったのかもしれません。縄で絞め殺された仔犬も父親も、その死が苦しみからの解放を意味していた可能性があります。そう考えれば、父親に対する敵意や、自分たちを苦しめる貧困への危機感が希薄な点とも辻褄が合います。
サムのストランドも、三毒にまみれて苦しむミュールやテロリスト、ヒッグス、ひいては自分自身すら救済するためのものだったのかもしれません。貪は必要以上のものを求めるミュールの配達依存症、瞋はサムに異様な敵対心を抱くヒッグスの憎悪に代表されていて、癡はデス・ストランディングで混乱を来して真理から遠のく社会心理と考えると自然とつながります。物語が進むとサムが右手に着けている手錠端末が BT の臍帯を切るコード・カッターになりますが、右手で使う点を考えると、これがサムの倶利伽羅剣なんでしょうね。形状的には投げ縄の輪っぽくも解釈できますが、臍帯を切られた BT は、サムに「いいね!」をして海に戻っていきます。BT 自体が生者の煩悩なのかな?
クリフォード・アンガーは銃でもストランドでも撃退できるところがちょっとナゾですよね。生者ではない点で BT とほぼ同じと考えると、縄で救済できる余地も用意されているという感じでしょうか。クリフはむしろ息子の救済のために存在しているところがあるので、戦場の悪夢と化したビーチで息子めがけて銃をぶっ放してくる点も矛盾しています。それが彼の父親としての不器用さの象徴なのか、あるいは彼がもう救いようがない墜ちた存在であることの示唆なのか、いろいろ考えてしまいます。自分では叶えられなかった橋になるという夢を父親が息子に託していく筋書きだから、戦うことしかできなかった親世代みたいな、反面教師的な意味が込められているのかな?
ところで、名越先生のサムの分析はとてもおもしろいですね。ちょっとムービーを観ただけで肩幅から利き手をあてるのも、医学の基礎があってこそでしょうね。
体癖論は野口整体の創始者である野口晴哉先生が提唱した概念で、人間の体のクセはその人の体質や感受性、生理的傾向、心理的傾向、運動傾向、病気のなりやすさなどとある程度結びついているという考え方です。12種類にわけられたタイプを知れば、自分やほかの人を見たときに、そのひとの無意識な傾向をある程度推測することができます。
サムは典型的なねじれタイプで、気質としてはお節介、人の上に立つのが好きで、ガタイもいいので対人関係で優位になる体格をしています。しかし顔を見ると幼少期になにかつらい経験でもしたのか、口の閉じ方に緊張感があって、自分を表現することをやや抑圧されている様子があるとのことでした。人に興味があるからこそ、逆に怯えているという分析は、心理カウンセラーだったサムの妻の診断レポートをのちのち読むと、まさにドンピシャであることがわかります。
『なわ』はスクラップ置き場の番人である老人視点で話が展開していきます。老人はリウマチを患っており、ただ穴をのぞいているあいだも、たびたび足のうずきに関する表現が登場します。
のぞく先のスクラップ置き場で虐げられていた仔犬は、途中脚を負傷して歩けなくなり、這うようにして子供たちから逃げ惑います。その姿を「オットセイだ」と少年たちが笑います。こうしてみると、仔犬には足が不自由な老人の姿も投影されているのかもしれません。彼が怒りを覚えるわけです。
二人の姉妹の父親は、娘から金を取りあげるために、自分が履いていたボロ靴を娘に売ろうとします。そして取引が成立すると、裸足で競艇場まで歩いて行きます。彼がまだ自分の足で目的地に行ける点と、靴を捨てる投資が足を悪くするリスクをはらんでいる点がちょっと気になります。くわえて、彼の靴は律儀に娘の手から戻されています。それも彼の死後にきれいにそろえて。
サムにとって、足は商売道具です。靴も重要な装備として登場します。彼は死体処理班のイゴールに付き添って焼却場へ向かう途中で、トラックから放り出されて派手に出血するほど右足を負傷しています。そして、その流れた血によって、自分の体液が BT に効果があるかもしれないと気付きます。
スクラップ置き場の番人が子供たちの様子をのぞく穴は物語が始まったときにはすでに空いていて、男もすでに中毒のようにのぞかずにはいられなくなっています。男は子供たちの仕業に怒りを覚えながらも、あえて彼らの行為に干渉しようとはせず、席を立ったと思ったらただの小便だったりします。実害がある子供たちの存在をなんとかしようと穴をあけてのぞくうちに、のぞくこと自体が目的になり始めている印象があります。
これはのぞき穴を通すことで、自分の問題とのあいだに距離ができ、むしろ相手に気付かれずに自分だけが知っている優越感や、ちょっとした後ろめたさなど、心理的な報酬が大きく働くようになっているからだと思われます。物語が始まった時点で、男にはどこかスクラップ置き場の状況が、まるでテレビのドラマを観るみたいに、他人事めいた見世物になり始めているんだと思います。
のぞき込むという行為は、視点の変化をもたらします。仔犬をいじめていた少年たちは、仔犬をボイラーの缶に追い込んで、脇に空いた小さな穴からのぞき込み、くず鉄の破片や鉄の棒をその穴から突っ込んでさらに仔犬を攻撃します。同様に、姉妹もボイラーの缶をのぞいて、海が見えるとはしゃぎます。それまで仔犬を無残に殺したり、心中しかねない父親と異様な親子の会話をしたり、コンプレックスらしき口元の表情を指摘されて泣き出したりしていたのに、コロッとボイラーのなかの風景に夢中になります。異様な流れとしか言いようがなく、資金的援助を申し出ていた男もどっと疲れてやがて相手にしなくなります。
私はサムにプライバシーがないことも気になるんですが、むしろ物語的にのぞき込むと言えば、BB に接続するたびに見えるクリフォード・アンガーの姿だと思います。それはけっきょくサムの記憶なんですけど、スクラップ置き場ののぞきをやめられない老人も、ボイラーのなかに偽りの海を見つけて喜ぶ姉妹も、けっきょくは自分のなかの問題がそこに表れているのだと思います。
のぞきが視点の変化をもたらす一方で、『なわ』の物語も視点主が途中で変わります。最初はスクラップ置き場の番人を中心に物語が描かれますが、姉妹が家に帰って父親の首を絞める場面に男の存在はありません。スクラップ置き場の覗き穴があった小屋は壁に穴を空けなければスクラップ置き場が見えませんでしたが、姉妹の家は窓にガラス代わりの板がはりつけてあるものの、外からズラしてなかの様子を見ることができるうえ、裏口には戸がなく、その気になればのぞき放題なのではないかと思われます。ある意味、このシーンは読み手がのぞいている構造なのかもしれません。あるいは宵闇に紛れてスクラップ置き場の番人がじつはどこかから姉妹の殺人をのぞいているのかもしれませんが、こっちのほうがホラーですね。
BB の記憶をのぞいているように見えて、じつはサムの記憶を見せられていたというトリックは、Death Stranding の大きなオチになっています。サムはそれまでわりとアメリの話を黙って聞き、デス・ストランディングに巻き込まれた人々の物語と想いを黙って聞き、人々のお願いを黙って聞き……というふうに当事者にあまりならない立ち位置が多かったんですが、最後の最後になって、急に「オレが……オレたちがブリッジだ!」と言わんばかりに伏線を回収していきます。
Death Stranding の世界では、あの世は海だと言われていて、人が死んだらまず行く三途の川的な場所はさしずめ海際のビーチだと例えられ、このビーチという表現が定着しています。よって、作中、海や水際は危険なイメージがどうしてもつきまといます。
『なわ』では、まず二人の姉妹が川からずぶ濡れになってスクラップ置き場にやってきます。そして姉妹は仔犬を引きずり出したボイラー缶のなかに海を見出します。
スクラップ置き場はそもそもくず鉄の死に場所という表現がされていて、最初から死の匂いが漂います。川は言わずもがな三途の川を連想させますし、そこから這い出てきた姉妹は父親の経済状況が原因で死と隣り合わせの生活をしていたようです。海は姉妹にとって今向き合っている日常の危機がないあこがれの場所なのかもしれませんが、海は川が行き着く先であり、サムがつなぎ直そうとしている北米大陸ではまさにそれ自体が死です。
『なわ』の男は仔犬がいよいよ危ないというときに立ち上がって、わざわざ川岸まで用を足しに行きます。この行動、けっこうナゾなんで、ちょっと気味が悪いんですよね。
サムも配達の道中、トイレがないという言い訳で立ち小便ができます。サムの体液には BT 避けの効果があるため、あえて BT に向かって放尿することもあります。ま、それだけの共通点なんですけど、尿をひっかけるという行為は侮辱でもあり、川が三途の川であれば死に対するささやかな抵抗を意味しているのかもしれません。サムが BT に放尿する行為も、自分たちを滅する者を侮辱し遠ざける、ある意味これも棒なのかもしれません。
『なわ』の不気味さは、おもに二人の姉妹の存在感が大きいと思います。あっさりと命を奪う残虐性を持ちながら、自分たちの命が脅かされる原因であるはずのお金にはあまり頓着していなかったり、父親から逃げまわった末に殺しておきながら、丁寧に靴を返す子供の純粋さを見せたり、人間性の振れ幅が大きくて、逆につかみどころのない幼女の神秘性が醸し出されています。二人の姉妹の前では、仔犬をいじめて調子に乗っていた少年たちもたじろいでいますし、番人の男も金をやると言って近寄りつつも、徒労の末に交流をあきらめ、父親ですら丁寧に言い聞かせて説得するしかありません。
Death Stranding も強い能力者はだいたい女性です。ビーチを介したワープ能力を持ち、BT の姿が見えるフラジャイル、BT となった胎児を通じて死後も活動し続けたママー、ママーの魂を吸収してひとつに戻ったロックネ、さらに絶滅体としてすべてを凌駕する能力を持つブリジット兼アメリ。そう言えば、BB もルイーズという名前から察するに女の子でしょうね。
男性の能力者というと、サムのほかにはハートマンぐらいしかいないんじゃないでしょうか。ハートマン、キャラが立ってて大好きなんですけど、ちょっと女性陣と比べると能力面では弱い気がします。
『なわ』の二人の姉妹のうち、妹のほうは本人曰く生まれつき口元が引きつって横に広がっていて、まるで薄気味悪い笑みを浮かべているように見えます。男はスクラップ置き場から離れていく少女たちをなんの未練もなく見送りながら、それでもあの娘が本当に笑っているわけではないということが信じられないと、そればかりが気になっている様子でした。
感情がわからないという点ではアメリも同じだなと思いました。博愛精神の塊というような言葉をホイホイ繰り出し、案の定ウソつきアメリゴと判明しても、けっきょく世界を守るために気高い理想を貫いた感ありましたし、世界を滅ぼしたいのか、救いたいのか、自分が楽になりたいのか、みんなを愛したいのか、サムにどうしてほしいのか、もういろいろ感情が揺れすぎてエンディングの語りはちょっとついていけませんでした。2周目は薄ら笑みの芳子ちゃんと区別できるようにアメリの言葉を整理して彼女の心理を探りたいと思います。