映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』
こういう作品がもっと増えればいいのに。
米ニューヨーク市では今、映画館で映画を見ようと思うと、新型コロナウイルスのワクチン接種証明が必要らしいと友達が教えてくれました。映画ひとつ見るだけで証明書が必要になるなんて面倒くさいにもほどがあるので、そのときは単純にアメリカ市民じゃなくてよかったと思いました。パンデミックの早期収束を考えれば、こういう措置も致し方ないのはわかるんですが、厄介なことにそれと面倒くさい感情とは別物なんですよね。ワクチン接種の義務化や証明書(パスポート)の導入については、いろいろ議論を呼んでいるらしいので、今の日本ですぐ実現というわけにはいかないでしょうが、これからワクチンの接種率が上がるにつれて、日本も多かれ少なかれ、ワクチンを受けたことを証明できないと制限される行動や、人間関係とか社会生活とかで面倒くさいことが増えていくような気がします。ああ、マスク警察だけならいざ知らず、ワクチン警察までもが活気づくと考えるだけで面倒くさい。
まあ、その前に私が住んでいるのは日本なので、ワクチンの接種証明書なしで、平日の人が少ない時間帯を見計らって映画館に先日ぶらりと行くことができました。見たかったのは『プロミシング・ヤング・ウーマン(Promising Young Woman)』です。せっかく繁華街まで出たんですが、コロナも心配だったし、分散登校で早めに家に帰ってくるガキんちょもいたので、映画を見たらとっとと帰ってきました。本当はもっとブラブラしたかったところなんですが、それでもいい気晴らしになりました。映画はここしばらくずっと我慢していて、できるだけ家で見られる配信サービスに頼ってきたんですが、家にずっといるとやっぱり気が滅入りますから、たまにはお出かけさせてほしいです。
監督のエメラルド・フェネルはイギリス出身の女優さんで、2012年にジョー・ライトが監督を務めた映画『アンナ・カレーニナ』などに出演しています。最近の有名な役では、イギリス君主のエリザベス2世とイギリス王室をもとに描いた Netflix の海外ドラマ『ザ・クラウン』でカミラ夫人を演じています。
製作側のお仕事としては、日本では昨年までシーズン2が WOWOW で放送されていたクライムサスペンスの『キリング・イヴ/Killing Eve』がわかりやすいと思います。複数のエピソードで製作総指揮を務め、脚本も手がけています。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』でもちょっとクライムものの匂いがするなと思っていたんですが、こういう経験があったからかもしれません。
映画の公式サイトには、以下のようなあらすじが書かれています。
30歳を目前にしたキャシー(キャリー・マリガン)は、ある事件によって医大を中退し、今やカフェの店員として平凡な毎日を送っている。その一方、夜ごとバーで泥酔したフリをして、お持ち帰りオトコたちに裁きを下していた。ある日、大学時代のクラスメートで現在は小児科医となったライアン(ボー・バーナム)がカフェを訪れる。この偶然の再会こそが、キャシーに恋ごころを目覚めさせ、同時に地獄のような悪夢へと連れ戻すことになる……。
映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』公式サイト
以下はパンフレットからの抜粋です。
幼い頃から極めて優秀、幼馴染みで大親友のニーナと一緒に医学部に進学したキャシーは、間違いなく“前途有望な若い女性”(プロミシング・ヤング・ウーマン)だった。しかし彼女の未来は、その医学部時代にパーティーで酔い潰れたニーナがアル・モンロー(クリス・ローウェル)にレイプされた事件で一変する。悪いのはレイプした男よりも泥酔したニーナだという学内の声や、アルが処罰されなかったという不条理な大学組織の実態。そしてキャシーは大学を中退する。
この映画は不条理な女性差別や性暴力、虐待によって大切な親友を亡くした女の復讐劇です。
公式サイトにもパンフレットにも書かれていることですが、製作側はキャシーの復讐劇のネタバレを望んでいません。なのでこの記事でも物語の結末については触れません。
復讐は甘いもの。でも、鮮度が命。
エメラルド・フェネル(監督 / 脚本 / 製作)からのお願い
映画を観た後、キャシーの計画をバラさないでくださいね。
だって、これはキャシーが語るべき物語だから。
この映画について好感を持っているのは、復讐劇として重苦しい雰囲気にしなかったところです。キャシーの復讐心はドロドロとしていて重苦しいんですけど、物語の佳境にナース姿で復讐相手のもとに乗り込むシーンといい、終始ポップなムードで演出されています。差別だ~虐待だ~で声を上げると、だいたいはその重苦しさから見向きもされないことが多いので、あえてポップさでシュガーコーティングしたのはいいことだったと個人的に考えています。エンターテインメントじゃないと人は興味を示さないし、重要な問題について再考する好機にはならなかったでしょうね。
あんな告発は男にとって地獄の悪夢だ!
アル・モンロー
性差別ではありませんが、同じ差別でよく話題に上る人種差別の問題では、「それは差別だよ」と指摘される側も攻撃を受けたような被害者感情を持つことが多いと言われています。無神経な差別にさらされた者には、さらに加害者を傷つけないように気遣いながら丁寧にそのことを相手に理解してもらえるように指摘する配慮が求められます。なんとも不条理な現実です。感情のままに悲鳴をただ上げるだけでは聞いてもらえません。
映画を観ている人が、ふと笑ってから、笑うところじゃなかった気がして笑いを引っ込める、その反応が好きなんです。この映画が誰かにとっての薬のようになるのは絶対に嫌でした。面白くて、描かれているリアルな物事にも興味を持ち続けられる、観る人の心に訴える作品にしたかったんです。
エメラルド・フェネル
作中、キャシー自身も被害者の母親から忠告されていることですが、復讐はなにも生みません。人間、もっと前を向いて生きるべきです。ただ、これは被害の渦中にあった人が苦悩の果てに口にするからこそ美しいのであって、本来なら第三者が偉そうに口に出すべきことではないでしょう。許さないこともまた被害者の選択のひとつです。世間一般によく言われる「過去の悲しい出来事ばかりを見てもなにも始まらない。前を向いて生きるべき」という言葉は、事を荒立てたくない加害者や、加害者の立ち位置に近しい人々が、被害者の口をつぐむために用意する耳触りのいい文句と表裏一体である可能性があります。
実際に、この作品には被害女性に訴えを取り下げさせてきた弁護士の男性が登場します。この手の弁護士は、ときに被害女性を脅し、ときに被害女性に裁判よりももっと明るい未来をつかみ取るべきだと助言のような口調で迫って自分の目的を果たします。暗く、重苦しく、非建設的な話題は好ましくないと、被害者に明るく前向きな言葉を期待する態度は、同時にこうあるべきという正解を一方的に押しつけて、被害者から声を奪い、抹殺する行為でもあります。
女性による復讐の映画を書きたかったんです。誰にも頼らず自力で問題を解決する女性の映画が増えていますが、得てして暴力的だったりセクシーなものだったり、異様に暗いムードのものだったりしがち。私が書きたかったのは、リアルな世界で普通の女性が復讐する様を描く映画でした。現実的な復讐は、暴力や銃とはまず無縁です。現実はもっと奇妙で込み入っています。
エメラルド・フェネル
この作品は、女性が女性目線で女性の復讐劇を描いているからこそいい作品になったと感じています。キャシーは周りから押しつけられた明るい未来に妥協することなく、自分の復讐心にしたがって物語の最後まで突き進み続けます。なんと言ってもエメラルド・フェネル監督はこの作品でアカデミー賞に複数ノミネートされ、脚本賞と監督賞を受賞しています。イギリスの女性が監督賞で候補になったのは彼女が史上初だそうです。イギリスは言うまでもなく、世界でも指折りの先進国です。そんな国でさえも、女性の映画監督が世界的な賞で初めて評価されるようになったような状況なんですよね。けっして短くない映画史のなかで、数多の作品が発表されてきたのに、女性視点のこういった物語が初めて評価される段階にやっとなってきているわけです。
このブログのメインコンテンツでもあるゲームの物語でもよく感じてここで指摘していることなんですけど、女性のキャラクターでもいまいち女性目線で作られていないなと感じることがあります。その原因の多くは、巷にあふれている物語の多くが男性目線で作られているからです。物語に登場する女性キャラクターの多くは、往々にして男性視点の「こういう女がいたらいいな」で描かれることが多くなっています。性的欲求をかなえるための対象だったり、「女ってこんなもの」という表層的な考えが具現化しただけのキャラクターだったりすることもあります。添え物のような都合のいい存在です。
今作のテーマである復讐という行動にしても、その人の性質が反映されるので、女性と男性では少し傾向に差があります。女性ならこう、男性ならこうと、けっして決めてかかっているわけではなく、あくまで統計的な傾向のお話です。少なくとも犯罪心理学ではよくその差が議論されています。やはり男女を比べると、男性のほうに暴力性が強く出る傾向があります。映画の展開を見ても、レイプ犯のアルが想像していた復讐と、実際にキャシーがしようとしていた復讐には差があったと解釈しています。アルはキャシーが自分を殺す、あるいは生き地獄を味わわせるために自分の目の前に現れたと考えていたようですが、キャシーがメスを手にしようとしていたのは、彼が犯して死に追いやった女のニーナという名前をその身に刻んで一生忘れられなくすることでした。この差には、それぞれが重視していること、そして恐れていることがよく現れていると思います。
別に男に意地悪したいわけじゃない。ただ、概して女性は男性にくらべて驚くほど暴力性が少ないことに気づきさえすれば、暴力が一体どこから来るのか、それについて私たちに何ができるのか、もっと生産的に理論化できると思うだけだ。米国の場合、簡単に銃が手に入るということも大きな問題だが、だれにでも銃が手に入るにもかかわらず、殺人犯の90%は男性なのだ。
レベッカ・ソルニット, 『説教したがる男たち』
あまり触れられないことだが、アメリカ合衆国でこの30年で起きた62件の銃乱射事件のうち、女性が犯人だったのはたった1件しかない。というのも、「孤独なガンマン」と言われてみなが思い浮かべるのは孤独な人物と拳銃のことであって、だれもがそれが男性であることについては話題にしないからだ。ついでに言うと、銃で射殺される女性のうち実に三分の二は、パートナーか元パートナーの手にかかって亡くなっている。
Gender violence is one of the world’s most common human rights abuses. Women worldwide ages 15 through 44 are more likely to die or be maimed because of male violence than because of cancer, malaria, war and traffic accidents combined. The World Health Organization has found that domestic and sexual violence affects 30 to 60 percent of women in most countries.
Nicholas Kristof, Is Delhi So Different From Steubenville?
(ジェンダーに基づく暴力は、世界的に広く見られる人権侵害のひとつです。世界中の15~44歳の女性が亡くなったり、身体的障害を負ったりする確率は、がん、マラリア、戦争、交通事故によるものを合算しても、男性からの暴力によるもののほうが高くなっています。世界保健機関によると、家庭内暴力と性的暴力の問題に影響を受けている女性は、ほとんどの国で30~60%にも上ります。)
銃を持ってセクシーに復讐を遂げる女性像は、べつにいてもいいし、そういう女性もいるだろうけど、それがさも当たり前のように語られるのは、男性社会でもはや当たり前になっている男性視点で描かれるからこそのまやかしに近いと私は感じています。自分の攻撃性が高いから、ほかの人間も同じ手段に出るはずと思い込むんでしょうね。他者を否定して、視野が狭くなっているから、みんな自分と同じ土俵で勝負していると勘違いするみたいな感じです。それこそ個性を認められない偏った思考です。性別に限らず、人にはそれぞれ個性があって、本来ならそれをお互いに認められればいいはずなのに、この世界は目に見えてわかりやすい、しかも先天的な要素で線引きして優劣を決めるのが好きです。そうやって線を引いて個性を潰し合うからこそ、自分の個性さえも見失うことになるんです。今作で女性目線の復讐のひとつが描かれたことで、映画の物語、あるいは表現の多様性の幅が広がるなら、それはとてもいいことだと思うんですよね。
女性目線でよかったと思ったのは、なにも監督のお仕事だけではありません。今作、登場人物がまとう衣服や住まいまで、異様な説得力がある仕上がりになっていました。「異様な」と言うのは、これまでの映画のほとんどが手を伸ばせなかったかゆいところにまでぐんぐん手が届いていて、逆にこのグッとハマる感覚が、変に感じさえしたからです。
女性にとって服は、世界と相対するための武器にできる、簡単で手っ取り早い手段。昼間のキャシーは全身で“私は元気”という雰囲気を醸し出す必要がありました。パステルカラーやギンガムチェック、髪にはリボンを。うまくいっていないときほど女性はきれいに見えるもの。
エメラルド・フェネル
パンフレットでこの文章を読んだときに、「そうそう!」というか、妙に理解されている感覚を覚えました。きちんと着飾る女の心理をとらえようとしています。男性目線の作品になると、どうしても女が着飾るときは外からどう見えるかという観点にフォーカスが当たりがちです。まるでマネキンみたいに女本人に意志がないんです。あるいは、傾向として男性は女性よりも実用性を好む、というか、社会的に着飾る必要性を感じない立ち位置にあることが多いので、着飾るファッションの哲学みたいな掘り下げがまるごとゴソッと抜け落ちているように感じることが多いんですよね。そして理解不足のまま安直に導き出される女が着飾る理由のその答えは「男を欲しているから」とか「目立ちたいから」になりがちです。
女性が化粧を始めたり、着るものにこだわったりし始めるのは、ほとんどが10代のころだと思います。その心理は往々にして「異性の気を引きたい」や「自分をアピールしたい」といった明確なものではなく、背伸びがスタート地点になっているんじゃないかと私は考えています。自分がなりたいものを意識した変身願望です。それは憧れの有名人や大人の女性であることもあるし、いつもの自分とちょっと違うだけの特別な自分であることもあるし、気分転換だったり、勝負時の願掛けだったり、そのとき、その人によってさまざまでしょうが、そこにアピールしたい相手はかならずしも必要ありません。男性目線の解釈だと、ここがいまいち理解されていない気がします。
もっと大事なポイントを挙げると、一部の女にとって化粧やファッションは、目的があって、あるいは楽しむためにしていることでもありません。多くの女性にとって、女性らしい化粧やおしゃれは社会的に半ば強制的に義務づけられているもので、面倒でも取り組まなくてはいけない問題でもあります。最初に化粧を始めたのはなぜか、ファッションにこだわりだしたのはなぜかを掘り下げると、自分の気持ちどうこうより、同級生に合わせて自分が浮かないようにするためという人もそんなに少なくないと思います。化粧をしたくない女も世のなかに山のようにいますが、その多くは社会的なプレッシャーに反してスッピンのまま過ごすデメリットを考慮して、みんなと同じように、社会に求められている最低限華のある女を演じることを選んでいます。それはサービスでもあり、妥協でもあり、強迫観念でもあります。そこに能動的な楽しさを見出そうとするささやかな抵抗も、状況によっては「自分をかわいく見せようと必死」とか「年齢のわりにケバい」とか、いろいろと批判の的になることもあり、内心めんどくせーと思っている女性もそこそこいるんじゃないでしょうか。
キャシーのヘアスタイルのインスピレーションには、ブリジット・バルドーのような往年の「かわいいベベちゃん」のイメージがあるそうです。それはかわいい女を演じることで社会的プレッシャーから身を守るキャシーの盾でもあります。性犯罪に巻き込まれて亡くなってしまったニーナについて、キャシーは利発で自分の芯がしっかりあったと語っています。ニーナは作中登場しないので実際のところはわかりませんが、ほかにも登場人物の口から語られる彼女の特徴が言葉どおりなら、男社会で反感を買いやすい女性のタイプであった可能性があります。それは表向き男が好きそうな女を装えるキャシーとは対になるものです。
今作ではインテリアにも女性視点のこだわりが見られます。男女の性質をあえて比べるこの流れから言えば、家のなかというのは、昔から得てして女性の領域としてとらえられてきました。いわゆる、男は外で稼いできて、女が家庭を守るという夫婦のかたちです。あくまで一般的な傾向として、身体的に恵まれていることが多い男性は外に出て狩りをし、女性が居住地に残って料理や子供の世話をするというスタイルがある意味で現代に続くスタンダードになっていると見られています。実際は生きるのに必死だった昔は女でも普通に狩りに出ていたし、専業主婦なんて日本では戦後の1950年代から定着しだした歴史の浅い慣習なんですけどね。
でも、ことキャシーの家にかんしては、女性が主であることが如実にわかるインテリアになっています。
キャシーの両親の家に求めていたのは、誰が家を管理しているのか明確にする飾りでした。家じゅう天使の絵やイヌの写真や置物だらけなら、その家は大いに甘やかされた女性が管理しているとわかります。求めていた奇妙で異常で女性的な場所がまさしくこの家でした。
エメラルド・フェネル
キャシーのお母さんを演じているのは女優であり、コメディエンヌでもあるジェニファー・クーリッジさんです。映画『キューティ・ブロンド』でポーレットを演じていたかたです。コメディに強いだけあって、場の空気を読む能力に長けていたり、人情の機微に聡かったり、総じて賢いからこそ世間が求めるバカ女の絶妙な演技がうまいかただという印象を勝手に持っています。見た目だけで言えば典型的な整形顔で、昔イケイケのギャルだったことが想像できるいかにもな女性的性質を備えたかたです。そんなキャシーの母親は、医大というエリートコースから外れた娘にトゲを隠せず、もうすぐ三十路になろうかという女が結婚もできずにしょうもないカフェの店員を続けて実家に居座っていることに嫌味を言い放ちます。ちなみに、この女としての賞味期限が迫っているのにまだ結婚できないと責められる息苦しさは、実際に経験した女性ならではの感性がないと盛り込めないと思います。ここらへんは男性視点だといまいちわかりにくいようです。
キャシーの家は、物語の後半に出てくる親友ニーナの家に比べて、裕福そうに見えます。ニーナの母親はジーンズにシャツという服装ですが、キャシーの母親はあまりカジュアルな格好をしておらず、朝の起き抜けでもきちんとおめかししています。おそらく彼女の両親は、古く、堅苦しい男女観にもそれほど苦なく適応できた富裕層出身だと思います。その影響はキャシー本人にも少なからず見られます。そして、社会にうまく適応できた者は、往々にしてできない者の心理について無理解です。性別だけでなく、人種も、年齢も、身近な差別は、じつは意外と悪意をもっておこなわれているものは少ないんじゃないかと私は感じています。相手を思いやるために必要不可欠な理解が足りないがゆえに悪気なく言動に出てしまうパターンのほうがもっと身近だと思います。指摘されたほうが攻撃されたように感じるのもそのせいでしょう。そのせいか、こっちのほうがタチが悪かったりもするんですけどね。
キャシーの復讐相手には、親友のニーナがレイプ被害の告発をしたとき、信じようとも協力しようともしなかった女友達のマディソンが含まれています。“Madison”は今でこそ女の子の名前としてポピュラーになっていますが、もともとは男の子の名前で、その意味も「マシューの息子(son of Matthew)」です。“Mattew”はキリスト教由来の名前で、「神の贈り物」という意味があります。キリスト教は唯一神を父とし、三位一体の神性を息子のイエス・キリストと聖霊を合わせた様式で表していて、女性が入る隙がなく、男性優位の文化に根付いた宗教としてしばしば言及されています。マディソンは女性のなかでも男性的な視点を持つ者だと考えられます。それは先天的な個性としてそうなのかもしれないし、後天的に生きる術として身につけた社会的弱者の知恵だったのかもしれません。とくに彼女の次にキャシーの標的になる大学の学部長は、女性の問題を把握していながら、そのことに目をつむって男性社会に適応し、学部長の地位を築いたと思われる後者のパターンに該当します。
一つ、「おじさん」に見た目は関係ない。だが、見た目で判別がつくことは確かに多い。特に、目つき。特に、口元。座り方もだらしない。
一つ、「おじさん」は話しはじめたらすぐにわかる。
一つ、どれだけ本人が「おじさん」であることを隠そうとしても無駄な努力である。どこかで必ず化けの皮が剥がれる。けれど、「おじさん」であることを隠そうとする「おじさん」は実はそんなにいない。「おじさん」はなぜか自分に自信を持っている。
一つ、「おじさん」に年齢は関係ない。いくら若くたって、もう内側に「おじさん」を搭載している場合もある。上の世代の「おじさん」が順当に死に絶えれば、「おじさん」が絶滅するというわけにはいかない。絶望的な事実。
一つ、「おじさん」の中には、女性もいる。この社会は、女性にも「おじさん」になるように推奨している。「おじさん」並の働きをする女性は、「おじさん」から褒め称えられ、評価される。
松田青子, 『持続可能な魂の利用』
彼女たちは居心地の悪さを覚えながらも、なんとか男性社会に適応できた女たちです。個人的にはあまり彼女たちを責める気にはなれません。彼女たちも無理を強いられている弱者です。弱い者を責めるのは簡単で、責めたところで根本は直りません。ただ、困った仲間がいたときに少しでも寄り添おうとせず、最初から突き放すことを選んだ点で、根本的な人間性はどうかと思うのは事実です。実際に、作中のキャシーは反省の色を示した男性弁護士には復讐しようとしませんでした。彼女たちに求められていたのは、男だ女だ、どっちの側だといった論争めいた話ではなく、追い詰められた人間に寄り添い、理解しようとする人としての心根だったと考えています。
キャシーが最初に復讐を果たしたマディソンですが、呼び出されたときは白いドレスを着ておめかししてレストランに現れます。双子の子供がいて育児に追われているので、こんなシャレた食事ができるのは久しぶりだと言って、キャシーの本心も知らずにガールズトークに没頭します。次にキャシーの前に姿を現したとき、彼女はユニクロでも手に入りそうなものすごくシンプルでカジュアルな服装をしています。ズボンに高いヒールはなしという姿に、「ああ、普段は本当に双子の世話に追われている普通のママなんだな」と感じたものです。おしゃれしたくても、している暇がないんでしょうね。ものすごく普通で、ものすごくリアルです。このときシャビーシックのかわいいソファに腰かけてマディソンと向かい合うキャシーは、体の線が出る柔らかな生地のサンドレスを着ています。マディソンとは違い、子供がまだおらず、まだ未婚で、今後の人生を考えれば、本人の意志とは裏腹に伴侶となる男性の気を引かなければならないライフステージにあることが一目でわかります。
主人公のキャシーは、ずっと愛称で呼ばれているのでわかりにくいんですが、フルネームをカサンドラ・トーマス(Cassandra Thomas)と言います。カサンドラはギリシャ神話に登場するトロイの王女の名前で、彼女は太陽神アポロンに見初められ、彼の恋人になることを条件に予言の力を授かります。しかしこの予言の力でアポロンから愛想を尽かされる未来を見たため、彼の愛を拒むようになります。機嫌を損ねたアポロンは、だれも彼女の予言を信じなくなる呪いをかけました。そのせいでトロイの木馬が自分の国を滅ぼすと民に警告したときも信じてもらえず、祖国滅亡に際して陵辱され、敵将の戦利品として敵国に連れていかれ、愛妾として反感を買ったために主人共々正妻に殺されています。
トーマスは機関車でもおなじみの男の子の名前ですが、イエス・キリストの十二使徒などから語源をさかのぼると「双子」という意味があります。だれと双子なのかを考えれば、やはりニーナでしょう。もちろん生物学的な話ではなく、無二の親友、ソウルメイトというような意味合いです。ニーナ(Nina)の語源は複数あり、カタリナやマルティナなど、名前の最後が“ina”や“ine”で終わる名前の愛称として定着した例や、スペイン語派生では単純に「女の子」という意味も考えられます。個人的には後者かなと考えています。
この物語はニーナの犠牲がすべての発端になっています。でも、作中ニーナの存在を感じることはほとんどありません。前面に押し出されているのは親友を失ったキャシーの怨念とこの世の不条理です。ニーナはただ単にたまたま運悪く性被害に遭って、死を選んだ不運な女の子だったのかもしれません。平成29年に内閣府によって実施された「男女間における暴力に関する調査」の研究では、約二十四人に一人、そのうち女性の約十四人に一人は無理やり性交等をされた経験があることがわかっています。彼女は世界のあちこちに、私たちのすぐそばにいます。
上にも書きましたが、キャシーはもう一人の母とも言えるニーナの母親とあらためて話して、死んでしまったニーナのことばかり振り返らず、前を向いて自分の人生を生きるべきだと忠告を受けます。キャシーはなんとかして助けたかった半身のようなニーナを失って悲しみに暮れていますが、直接の被害者ではありません。たまたまのラッキーですが、彼女にはまだ事件のことを忘れて前に進む選択肢が残されています。では、キャシーは本当に被害者ではなかったのかと言えば、それはカサンドラのネーミングからしても違うでしょうね。キャシーはニーナを助けようと奮闘しましたが、周りから協力を得られず、親友を亡くしています。彼女もまた、社会的立場から信用されないという女性差別に遭った哀れな被害者です。
仮に彼女がライアンのような前途有望な若い男子学生だったらどうだったでしょうか。ちなみにライアン(Ryan)はアイルランド派生の名前で「傑出した」や「小さな王様」といった意味があります。映画業界では今、女性が性被害を告発する「#MeToo」運動が活発になっていて、大御所俳優や大物監督が告発されたり、著名な女優がムーブメントに物申したりと、いろいろと物議を醸しています。「#MeToo」運動に関連するインタビューのなかで、ちょっと周りとは違った視点で語っていたのがトム・クルーズの妻だったニコール・キッドマンです。
私は若くして結婚しました。私は愛のために結婚しましたが、非常に力のある男性と結婚したことは、私をセクシャルハラスメントから守ってくれることになりました。働きながらも、かなりしっかりと保護されていたのです。
ニコール・キッドマン, 『ニコール・キッドマン トムとの結婚が性暴力から守ってくれた』
これと同様のことを、キャサリン・ゼタ・ジョーンズも口にしています。彼女は映画『マスク・オブ・ゾロ』でキャリアが軌道に乗り始めたころにマイケル・ダグラスの目に留まり、25歳の年の差をものともしない猛烈なアプローチを受けていて、業界でも二人の関係を知らない者はいませんでした。俳優としてもプロデューサーとしてもアカデミー賞を受賞して確固たる地位を築いていたマイケル・ダグラスに対抗しようという猛者はなかなかいないでしょう。
「#MeToo」運動で自身が受けた性暴力やハラスメントを語る女優は少なくありませんが、主役級の女優でもほとんどがキャリア形成前の無名時代のもので、力を持たないことがターゲットにされる要件になっていると考えられます。ただ女優のなかには、本人の意志とは裏腹に、あきらかに性的対象として扱ってもいいというキャラ付けがされてしまっているタイプの人もいます。例えば、映画『レオン』のロリータ的キャラクターでデビューしたナタリー・ポートマンは「性的暴力は受けていないものの、私が関わったほとんどの作品で何かしらの差別やハラスメントは経験したわ。はじめは人に話せるような体験談はないと思ったけど、よく考えたら100以上の体験談を持っていた」とインタビューで語っています。この手の犯罪を実行に移すとき、「この女は従順そう」「ちょっと押せばそのままゴリ押せそう」「騒がれても揉み消せそう」といった下心がないとは言えないでしょう。キャシーもまた、この下心に押し殺されて、いまだに自責の念に苛まれている被害者の一人です。自分に力があったら、ニーナは性暴力の被害に遭わず、自殺せずに済んだかもしれないし、周りの女友達も学部長も一緒に協力して戦ってくれたかもしれないと、今でも悩み続けています。
パンフレットでも説明されていることですが、キャシーは映画のところどころで、例えば宗教画の聖人の光背のように頭部の後ろに丸い壁の装飾が映り込むアングルで撮影されていたり、女性を守護する復讐の天使のように描かれている節があります。彼女は物語の最初から最後まで、声を奪われて無残に殺されていった女性たちの味方として寄り添っています。
黙殺される性犯罪の被害者の実態をリアルに描いたという点で、もうひとつこの映画が素晴らしいと思うのは、犯人のアル・モンローの性格です。大学で優秀な成績を収め、学生時代から未来を約束されていて、キャリアも難なく築き、高嶺の花のモデルを妻として迎える勝ち組の男です。こういうキャラクターは得てして攻撃的で支配的で、いかにも男性的特徴を備えた男になりがちです。でも、実際のアル・モンローは気弱で、セクシーなナース姿でキャシーがバチェラー・パーティーに乗り込んでも、一夜の情事には乗り気でなかったり、さらにはニーナの名前やキャシーのことを覚えていたりもします。ニーナの名前を覚えているのは、被害女性を脅して性犯罪の届出を取り下げさせていた男性弁護士も同じです。彼も自分がしてしまったことに罪悪感を覚え、弁護士の職を失って自宅にこもって苦しみ続けています。意外と加害男性も気が弱く、ちょっとした失敗を律儀に覚えていたりするものです。
あまり自信や決断力がなさそうなアル・モンローを逐一そばで支えていたのは、親友のジョーでした。ジョーは短い登場シーンのあいだ、アルの意見は気にも留めず、自分でその場を取り仕切って物事を進めていきます。いかにも黒幕という立ち位置です。この点から、アルの学生時代の悪乗りが人の命を奪うほど逸脱してしまったのは、親友のジョーをはじめとした周りの社会的圧力もあったと考えられます。アル・モンローもまた、無理に背伸びしなければ男性社会に馴染めない男性差別の被害者であった可能性があります。もちろん自分がしたことがそれで正当化されるわけではありませんが。
ここまで名前の由来からキャラクター性を掘り下げてきたので、アル・モンローとジョーの名前についても考えてみると、マリリン・モンローとジョー・ディマジオの名前にかけたダジャレかなという気もします。アルはアルフレドやアルベルトなどの愛称ですが、接頭辞の“al-(ad-)”の可能性もあるかなと考えています。もはやセックス・シンボルと言い切っても過言ではないモンローに心を向ける者と考えれば、彼が下着モデルの美女を一生懸命口説き落としていた点などとも合致します。アルは社会的に成功したいといった男性的な上昇志向や、美女を妻にしたいという男性的な欲望をそのまま表していて、その実態は子供っぽささえ感じられるほど無垢でした。決断力が足りない幼さや、自分の欲望にまっしぐらな純粋さからは、これまた妙な男性、というか永遠に男の子から抜け出せない特徴があるように感じます。ジョーはジョセフの愛称として定着した名前ですが、英語圏ではその数の多さから名前も知らない不特定多数の男性を表すときにも使われます。男性社会の圧力の権化みたいなヤツはごまんといるということでしょう。
「#MeToo」運動のなかで忘れてはいけないのは、女性差別と同じように男性差別にも注意を払う重要性です。差別というものは、だれかを悪者にしてつるし上げればなくなるものでもありません。女性でも男の子を育てているとわかりやすいのですが、男性は本当に幼いころから「男の子なんだから我慢しなさい」というような「男の子だから」という理由で無理を強いられる場面が多々あります。そうやって理不尽さを覚えた男は、成長してから「女は楽だからいいよな」という偏った感性を持ちがちです。人間ってそう広い心を持てない生き物で、ちょっとした不平等感がメンタルに大きな影響を及ぼしたりするものです。今の子育て世代って、一昔前と違ってあまり手も上げなくなったし、こういうところによく配慮するようになったと思うんですよね。
ライアンを演じているボー・バーナムさんとか、この映画の男性キャストやスタッフもかなり理解がある協力的な人たちだと思います。腹の底では納得せずに、仕事と割り切って演じている可能性もあるかもしれませんが、数ある仕事のなかでこの映画を選んで挑んでいる時点でも十分協力的かなと思います。男性が協力しやすい女性目線の作品という点では、やはり冒頭で述べたライトなポップさもかなり功を奏していると考えられます。個人的には、上にも似たようなことをすでに書きましたが、差別は相手の気持ちや立場を理解せずに、本人の意志を無視してなにかを無理強いする無神経さに問題があると感じています。こういう仕事を通じて自分とは異なる性の人間がどういう気持ちなのかを考える機会に身を投じているだけでも偉いことじゃないかなと思います。差別をしていると批判されたら、自己弁護に走らず、最初はとにかく相手の言い分に耳を傾けることが大事とよく聞きます。それは多くの人間ができないことです。この映画のインタビューで監督と主演のキャリー・マリガンさんと一緒にボーさんが並んで座って話しているとき、コメントで「ボーのことは大好きだけど、たまには女がしゃべっているあいだ、ボーみたいな男がただそこにジッとかわいらしく座っているのを見るのも気分がいい」と言われていました。たぶん、仕事とかで悔しい思いをしたことが多い女性ほど、似たような感覚を覚える女性は多いんじゃないかな。逆に、女がかわいらしく黙って男の隣で花を添えて座っていることが当たり前だと感じている男性には理解もできない感覚でしょうね。つまりはそれも、まずもって理解しようとしていないから生じる問題なんですけども。
ゲームの物語でも薄っぺらさを感じることがあると上のほうで書いたんですけど、こういう点でちょっと幻滅したのは、今リメイクが精力的に作られている FINAL FANTASY VII の後日譚として製作された映像作品 ADVENT CHILDREN です。
この作品、主人公のクラウドが過去(ゲーム本編)の戦いのトラウマから戦闘を避けようとする傾向にあり、ヒロインのティファがそれについてお説教するという趣旨の発言をしたり、実際に逃げずに戦うように偉そうに説得しはじめたりします。物語の後半ではよくわからない男のケジメみたいな建前で、宿敵のセフィロスと戦うクラウドに味方がだれ一人として加勢しようとしなかったりもします。病気まで抱えて、もう戦いたくないと悩むクラウドの意志などお構いなしに、周りの人間が一生懸命「立ち上がれ!」「お前は戦わなきゃいけないんだ!」と吹き込み続けます。そして三人の敵に一人で立ち向かい、命を危険にさらすクラウドを仲間は安全な飛空艇から遠目に見守り、「さすが俺が見込んだ男だぜ!」と言わんばかりに男として持ち上げます。『プロミシング・ヤング・ウーマン』で言うなら、クラウドがアル・モンローで、ティファやシドはジョーに該当するんじゃないですかね。最初は乗り気じゃなくても、ちゃんと周りの期待に応えてやり遂げる能力があるところもこれまたそっくりです。これを見たときに、「ああ、この作品はいつまでもバブルを引きずって時代についていけなくなったおじさんたちが、自分の偏った感性で一生懸命、自分が抱えてきた男性社会のトラウマに打ち勝ってドヤ顔するために作り出した自己満足作品なんだなあ」と思ってドン引きしたのを覚えています。で、さらに女性キャラクターはおじさん好みの明るく前向きな男を立てられる女の子で、男の夢や欲望を叶えてくれる都合のいい存在なんでしょ。こういう脚本が日本の RPG ゲームの当たり前なら、「しょせんゲーム」とバカにされても仕方ないかなと思います。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』は見た目にポップだし、カジュアルだし、見終わったあとはショッキングな内容ではあるけども、それほどどんより暗い気持ちにならないように明るく演出されていると感じました。軽い気持ちで見られる映画として作られている反面、ディテールを見ていくとけっこう問題提議という点でリアルに作られている映画だと思います。いろいろ考えさせられるというか、この見た目に反した奥深さは映画を作る職人の腕だと思うし、よく練られたいい作品だと思いました。
映画が始まって早々に、キャシーが酔っ払ったフリをして、自分をお持ち帰りした男にお仕置きをする展開になるんですが、その男を演じていたのがアダム・ブロディでした。ピッタリすぎてちょっと笑ってしまいました。
今でもお気に入りのドラマの筆頭に挙がるのが StartUp っていうクライムサスペンスなんですけど、彼、これでも一見優しそうに見えて、じつは腑抜けで優柔不断、一番厄介な人物みたいな役柄になっていました。実生活では『ゴシップガール』のレイトン・ミースターを射止めているので、たぶんそんなことない男前だと思うんですけど、なんやかやこういうキャラクターのイメージがついてしまったのかなとちょっと不憫に思ってしまいました。
逆に主演のキャリー・マリガンはシャイア・ラブーフと別れてホントよかったなと思いました。シャイアは映画『ハニーボーイ』で詳しく取りあげていますが、キャリーが結婚したときは上から目線で急に別れた理由を暴露したりして、けっきょくリハビリ感覚であの映画を作ったあとも性的虐待を告発されて問題続きになっています。キャリーは今でも夫婦仲がよさそうですし、子供を産んだあと、この『プロミシング・ヤング・ウーマン』で見事に賞レースにも復帰しています。こういうところは人間性が出るよねとしみじみ思ったのでした。