This War of Mine
これぞ戦争ゲーム。
もうだいぶ前に Twitter でもつぶやいていたんですが、ロシアによるウクライナ侵攻が始まったときに、ウクライナのゲーム会社やウクライナの支援を表明しているゲーム作品をいくつか購入していました。具体的なゲーム名を列挙すると、Cyberpunk 2077、Sherlock Holmes Chapter One、S.T.A.L.K.E.R.、そして、この記事で詳しく取りあげる This War of Mine です。
いずれも購入後にあらためて調べてみて、配信やスクリーンショットの使用が公式に許可されていれば、Twitch でプレイ配信したり、ブログのプレイ日記でも書いたりしようかなと言っていたんですが、ザッと公式サイトなどを確認した感じ、Cyberpunk 2077 以外ははっきりとしたポリシーやガイドラインが見つけられませんでした。調べるとすぐに国内でも有名な実況者さんのコンテンツが出てきますし、最近のゲームは配信されることを意識していない会社のほうが少ないと思うので、こんな辺境でゲーム作品のコンテンツを利用してもすぐに面倒なことにはならないと思うんですが、うちはゲーム製作者さんの権利をなるべく尊重したいと考えているので、このゲームもプレス向けに公開されている画像などを使って内容を紹介し、ひとまず100時間ほどプレイした感想をここに書き残しておこうと思います。
ちなみに購入したのは Steam 版で、DLC などの追加コンテンツが全て入った Final Cut バージョンです。ゲームのボリューム的にはやっと半分を超えたぐらいですが、おそらく基本はなんとなくつかめた気がしています。残っているコンテンツは、私が思うに、ほかのゲームで言うところの縛りプレイややりこみ要素に近い高難易度プレイです。ゲーム下手なもので、今後やり続けて飽きる前にこのゲームの面白いと思ったところを今のうちに書き残しておこうと思いました。
This War of Mine は、ポーランドのゲーム会社である11 bit studios が開発した作品です。タイトルどおり戦争をモチーフにしていますが、操作キャラクターは戦争を仕掛ける権力者でも、戦闘員でもありません。ただただ大きな戦争に巻き込まれて、戦地に取り残されてもがき苦しむ一般人です。いつになるのかわからない停戦までとにかく生き残ることを目標としています。
リリース時に発表されたトレーラーは、武装した兵士たちが爆煙をかいくぐってボロボロの廃墟と化した市街地を駆け抜けるシーンから始まります。カメラは兵士たちを追いかけ、そのまま追い越し、やがて廃墟の中へと移って、そこで傷つき、うなだれている市民の姿をとらえます。ほかの多くの戦争ゲームとは違って、本作でプレイヤーが追体験するのは、こちらの非力な民間人の抑圧された日々です。
ゲーム本編は、物語性が強い DLC のストーリーモードに対して、クラシックモードと呼ばれています。停戦までの日数や開始時の初期メンバー、いつ冬が始まって、いつ治安が悪化するのかなどのある程度の要素があらかじめプリセットで固定されているシナリオが複数あり、難易度の低いものから始めて、徐々に高難易度のシナリオが解放されていく流れになっています。やることは基本どれも同じです。
操作キャラクターは10人以上いて、物々交換を有利に進められたり、少ない材料で物が作れたり、戦闘に特化していたりなど、それぞれに長所と短所があります。例えば、上のリヴィアさんは妊婦で、肉体労働がことごとく苦手、というか、ほとんどできない人なんですが、少ない物資で調理や工作をこなせるトリッキーな役になっています。
操作キャラクターには地元民はもちろん、国外から来て戦争に巻き込まれた記者や、ほかの地方から派遣されてきたものの、厳しい最前線での任務に耐えきれず逃げ出して潜伏している脱走兵などもいます。たまたま居合わせて、たまたま同じ廃墟で避難生活をすることになった者同士、物語が進むごとに、その避難生活を通じて彼らが経験する出来事のほか、彼らの独白でもこの戦争の側面がどんどん語られていく仕組みです。戦争の全体像をけっして最初から俯瞰で語ろうとせず、それぞれ巻き込まれた人々の視点で語られていくことで、ぼんやりとこの戦争のイメージが浮かび上がるようになっています。戦争がなんたるかより、その戦争を生き抜いた人々のそれぞれの生き方が重視されていることがわかります。客観的な事実をまとめて、歴史上の出来事として戦争を語るより、こっちの方が戦争の実態って感じがしますよね。
各シナリオは初期メンバーが固定されているんですが、プレイを進めると、おそらく拠点の住人が最大4人になるまでどんどん新しいメンバーがランダムで合流してきます。加えずに追い返して、少人数プレイを続けることもできますが、いずれにせよ、そろったメンツの強みを最大限に生かして、操作キャラクターたちが戦火から逃れられるシェルターをうまく運営していくのがこのゲームの醍醐味です。
日中は砲撃と狙撃兵による無差別射撃に巻き込まれる恐れがあるので、拠点から外に出ることはまずできません。拠点の中に留まって、瓦礫を掃除したり、前の住民が残していった有用な物を掘り出したり、集めてきた素材で新しい設備や道具、取引用のアイテムなどを作ったりして過ごします。
拠点にいる日中は、砲撃をかわして近隣の住民が取引に訪れたり、助けを求めてきたりもするので、その応対をすることもあります。自分たちも極限状態のなか、飢えた子供たちが助けを求めてきたらどうするか、砲撃に巻き込まれて負傷したご近所さんは助けに行くべきかなどの判断もしなくてはいけません。
夜間はメンバーから代表を一人選び、拠点の外に出て有用な物資をかき集めてくるターンになります。探索先は、住民が避難して空き家になった家屋もあれば、病院や空港などの施設もあります。探索に行けるマップも全部で30か所ほどあり、新しい場所に行けば行くほど最大15か所ぐらいまで解放されていく流れになっています。集まるメンツと同じように、どの探索先が出てくるかも、やり込む上では生き残る作戦が変わってくる大きなランダム要素になっています。
同じ名前の同じ構造のマップでも、訪れてみるとその場所を占拠している人物が変わっていたり、手に入るアイテムが違っていたりすることがあります。例えば教会は取引に応じてくれる友好的な教職者がいる場合もあれば、教職者を襲って乗っ取った強盗団のアジトになり果てている場合もあります。また、病院は物語が進行すると、爆撃で建物の構造が変わります。ほかの探索先でも時間経過で回収できなくなる物資があるようです。
ゲームは基本的にみんな横から建造物の断面をのぞき込む2.5D マップになっています。キャラクターモデルなどにクローズアップすることがまずないので、ポリゴンの作り込みは粗めだと思うんですが、独特な鉛筆タッチのフィルター加工なども相まって、グラフィックは全体的にうまく作られている印象があります。
マップにいるキャラクターや、画面右下に表示される顔アイコンをクリックして操作するキャラクターを都度切り替え、行ってほしい場所をクリックして移動させたり、使ってほしい設備のアイコンをクリックして作業させたりします。目的の場所を素早くダブルクリックすると、体力が落ちていない限りそこまで走ってくれたりもします。私は The Sims シリーズに近い操作感だと思っていました。昼と夜は時間経過で切り替わっていくので、やりたいことが多いときは各人の位置や移動スピードを考えて効率的に作業を進める必要があります。
このゲーム、チュートリアルというものがまずないので、最初はコツをつかむまで大変でした。日中、安全な拠点にいるときは、結局操作できるのはアイコンが出ている場所だけなんだとすぐにわかって、言うほどできることも多くなく、複雑でもないことがすぐ理解できて安心できました。モバイル端末向けでも似たような操作感でリリースされているらしいので、確かにこれだと画面をタップするだけでおおかた動かせるもんなと納得したぐらいです。操作が簡単なのはこのゲームの特長だと思います。それでも新しい設備を導入するときに、どこに置くのがいいか、実は目に見えない要素が影響を及ぼしているんじゃないかとか、いろんなことを考えて悩みましたけどね。
問題は夜の探索ターンです。無人や友好的な NPC だけの場所ならいいんですが、物語が進むと安全な探索先の物資も枯渇して、多少危険な場所に踏み込まざるをえなくなります。敵対 NPC がいると大変です。なんせ戦闘のチュートリアルなんてないし、勝手がわからないまま相手の懐に飛び込むので、最初は探索キャラクターが続々と無駄死にする事態になりました。
しかも戦闘時も相変わらずの行ってほしい場所をクリックする操作で、FPS や TPS のようにリアルタイムに細かな行動を操作することができません。逃げてほしいときに遠方をクリックすると、あえて敵に近い方のルート取りをして駆け出してしまったり、走ってほしいのにうまくダブルクリックが認識されなくてのんびり歩いて敵に追いつかれたり、逆に意図せず駆け出した足音で敵に見つかってしまったり、武器を切り替えようと思ったら間に合わなくて先に発砲されたり、戦闘中のちょっとしたうっかりで死ぬことはしょっちゅうです。仲間が死ぬと共感性が高い同居キャラクターがもれなくうつ状態になり、ただでさえ人手不足に陥った拠点を回していくのが困難になります。うつ状態のキャラクターは自死を選ぶ危険性もあり、死が連鎖するリスクすらあります。
自力で強行しても、あまりにもどうしようもなかったので、インターネットでヒントを探してみたら、このゲーム、毎朝日付が変わったときにオートセーブが入るので、夜の探索でピンチになったら、探索担当が亡くなる前に中断して、直前のセーブデータをロードし直す方法がオススメされていました。かなり邪道なやり方ですが、最初はそれで何回も繰り返して練習しろということのようです。
いろいろ試してみると、探索マップには隠れられるポイントがいくつかあり、そこから敵がこちらに気付いていない状態で目の前を通過するときに攻撃を仕掛けると、特殊なキル・ムーブが発生することがわかりました。正面から殴り合いや銃の撃ち合いをするよりも、基本は扉を開けっぱなしにしたり、わざと音を立てたりして自分が隠れている場所の目の前まで誘き寄せて急襲するのが定石だったようです。
また一部の戦闘が得意なキャラクターなら、背後に忍び寄るだけで、そのまま息の根をとめることもできたようです。朝と夜は時間経過で切り替わるため、敵の相手をしていると、ろくに持ち帰る物資の吟味もできずに夜のターンが終わってしまい、最悪時間内に探索マップから脱出できないと、翌朝しばらく探索担当が拠点に戻ってこないという事態にも陥りがちなので、やはり隠れ場所を必要とせず、そのままステルス・キルできるキャラクターは有利です。
戦闘の基本的な動きがわかってくると、操作キャラクターが一般市民でも、その気になれば軍の基地一つ滅ぼすこともできるようになります。高難易度で治安が早々に悪化するシナリオだと、虐げられている市民がいるマップにわざと優先的に突撃して、助けるフリをして兵士が持っている装備をちゃっかり奪い取ったりもできちゃいます。
ただ、状況やキャラクターの特質にもよりますが、殺人は高確率で操作キャラクターたちのメンタル悪化を引き起こします。このゲーム、けっして殺人をはじめとした犯罪は推奨されていません。本人はケロッとしていても、ゲーム内の見えないカルマ値が積み重なって、戦争を無事生き延びてからトラウマで薬物中毒になって死亡とか、家族と再会できずに精神を病んだとか、エンディングのその後の描写が悲惨になるパターンも少なくないようです。ここもこの作品のいいところだと思うんですよね。
敵対 NPC がいる探索先でも、見つからないように隠れ場所を活用して、注意深く敵の動きを観察しながら物資をこっそり持ち出すプレイはできます。もちろん上述のように隠れずに銃を持ち込んで殲滅させて、荷物を片っ端から持ち帰ることもできます。戦闘は傷を負うリスクが少なからずあるので、医療品がない状態で強行すると、傷が悪化して負傷したキャラクターを亡くす危険性もあります。殺人や仲間の死亡は、同居キャラクターのメンタルも少なからず害します。その点、少ない物資でうまくやりくりすれば、危険な場所を避けて取引だけで生き延びることもできます。リスクを承知で大胆に行くか、かなり倹しい生活になることを覚悟でリスクのないプレイにするか、できるプレイ・スタイルにかなり幅があります。複数用意されているシナリオで、基本は同じことを何回も繰り返しているのに飽きてこないのは、きっとこういう遊びの部分で設計がうまいからだと思います。夜の探索ターンに慣れてくると、よく考えられたゲームだなと感じるようになりました。
私個人の好みを言えば、物資をかき集めて自分の拠点を快適にしていくゲームが好きなんで延々やっていられます。反戦っていう小難しいテーマでどうやってゲームの面白さを引き出すのかって思ってたんですけど、やってて普通に面白いし、やめられないです。あそこに行って、あの物資取ってきて、あれ作って……と考えている間にだいたい停戦してしまいます。
突き詰めていくと、効率が何よりも重視される作業ゲームになります。工作や修理が得意な操作キャラクターが、物は直せるけど、人間はそうはいかないみたいなことを言い出すんですが、慣れてくると登場人物もしょせんはプログラムなので、子供と言えども容赦なく食事が三日に一度の腹持ち効率を重視した非人道的な生活になりがちです。それでも、たまに起こるイベントで心を突き刺してくるのがこのゲームのすごいところなんですよね。
探索時は各人の特性ごとに、懐にどれだけ荷物を詰め込めるかが決まっています。この点でも荷物をたくさん持ち運べるキャラクター、戦闘向きのキャラクター、隠密行動が得意なキャラクターなど、探索に出す人間も行き先に合わせてきちんと選ぶ必要があります。
外出先でのインベントリーは、基本的に Minecraft と似たシステムになっています。マスがいくつか決まっており、違う種類のアイテムは別のマスに振り分けられます。同じアイテムはそれぞれ所定の上限まで、まとめて同じマスにスタックできます。物資は基本あるだけいいので、すぐ必要になるアイテムを中心に、できるだけたくさんのアイテムをうまく詰め込んで持ち帰らせる必要があります。どれだけ詰め込んでも持てる量は知れているので、一通り探索が済んだマップでも、必要な荷物を全て運び出そうと思うと何往復もすることがざらにあります。
拠点内の設備を充実させるには、「木材」と「材料」という物資が大量に必要になりますが、この二つアイテムは、暖房の薪として使ったり、調理用のコンロで燃やしたり、雨水の貯水槽のフィルターに加工したりと、生きていくためにどんどん消費するアイテムでもあります。低難易度でも、なかなか思うように集めることは難しく、その場その場で、今日や明日を生き抜くために優先順位が高い用途はどれかを適宜判断しないと、あっさり物資不足で生活が立ち行かなくなって死にます。
何回かやって実感したんですけど、普通にやっていると、選択肢にある拠点内の設備を全てそろえるのは難しいと思います。思い切って切り捨てる設備を考えないと安定した生活はなかなかかないません。作れるなら全部そろえたくなるのが人情ですけど、それがかなわないところに戦時中の世知辛さがよく出ていると思います。
例えば、雨水を溜める装置は、ゲーム内の説明文で二つはあったほうがいいと公式に書かれているんですが、私の場合、一つも作らずに探索や取引でまかなったほうがうまくいきました。こういう避難時の水って、飲料のほか、衛生状態を保つのにも何かと必要で、かなり優先順位が高いものですけど、少なくともこのゲームにおいては、食材を調理するときぐらいにしか使いません。これだけなら専用の装置がなくても十分足ります。
水が足りなくなる状況について言えば、家庭菜園や密造酒作りを新たに始める場合などが考えられます。水を作るにはフィルターになる材料の資材が豊富に必要です。こうやって原料をたどっていくと、かなり物資豊富な拠点でないと、全ての設備をそろえて、さらにうまく継続的に稼働させるのは難しいと考えられます。うまくできたものを売りに出して、代わりにまた素材を調達して、さらに自分たちの生活に必要なものもそれで買い足して……とできたらいいんですが、行商人がやってくるのは数日に一度で、相手の在庫も限られていますし、トレーダーがいる探索先に行くにしても、物々交換が得意なキャラクターのインベントリーの容量には限りがあって、すべてを持ち帰るのは難しいところがあります。やはり戦時中に闇市みたいなビジネスで儲けるプレイスタイルは、この作品では少々贅沢過ぎるようです。
選択肢にはあるのに全てをそろえられない、いつもなにかを切り捨てないと生きていけない状況は、心理的な満たされなさで戦時下の貧しさの演出に一役買っているんですが、ゲームのプレイ要素としては、難しいと言われたらやってみたくなるチャレンジ精神を煽るものでもあります。ゲームに慣れてくると、今度は密造酒作り、あるいはタバコ作りを始めて、どの程度うまくいくか試してみたくなったりもします。こういうところも、すごくゲーム設計がうまいと思うんですよね。
各シナリオは、どれだけ余裕があっても、決められた日に停戦を迎えます。探索先のマップはせいぜい15か所ぐらいで、途中で物資がどんどん補充される様子はありません。トレーダーの在庫も決して潤沢ではないし、キャラクターが探索先から持ち出せる荷物の量も決まっているので、プレイヤーが拠点にかき集められる物資の数はある程度決まっています。あえて満たされない飢餓感が出るように物量が設計されていると考えると、このバランスの取り方は見事だなと思うんです。こういう側面から見ると、頭を使うストラテジーゲームの要素もあるように感じます。
探索に誰を出すのかと同じように、夜間の拠点に誰を残すのかもなかなか重要だったりします。夜間に代表キャラクターを操作して探索マップから物資をかき集めている間に、同じように、留守にしている拠点にも強盗が探索に訪れ、物資を奪おうと襲撃してくる可能性があります。この襲撃の有無と結果は翌朝、簡潔に文字で画面に表示されるだけで、プレイヤーのテクニック次第で無難に乗り越えられるといったものではありません。起こるときは無慈悲に武力衝突になっていて、こちらの分が悪いと物資を根こそぎ奪われています。
襲撃者は自分たちと同じ、ちょっと暴力的な一般市民から、物語が終わりに向かうにつれて、あるいは治安悪化のイベントが起こっている期間は、連携が取れた武装集団になっていきます。防ぐためにはかき集めた物資を消費して拠点を強化し、夜間に拠点に残る仲間のために強い武器を置いておく必要があります。
戦闘に適さないキャラクターだけを未強化の拠点に丸腰で残すと、物資を根こそぎ持って行かれる上に、残っているメンバーがランダムで負傷します。妊婦も子供も容赦なく暴力を振るわれます。傷の治癒には長い時間がかかり、治療に専念しているキャラクターは寝ているだけでまともに機能しなくなります。早く確実に治すなら貴重な医療物資を消費することになるし、傷を放置して働かせ続けると、やがて傷が悪化して死にます。そうなると上にも書いたように、ほかの操作キャラクターも仲間を失ったショックで精神を病み、最悪の場合、まともに動けなくなり、どんどん死が連鎖していくことになります。
開始早々に犯罪が激増するシナリオあたりだと、探索よりもこちらの防衛の方が焦点になります。インベントリーの容量が大きいキャラクターがいても、ほかに防衛力が低い仲間しかいなければ、あえてそのキャラクターに留守番をさせるといった戦略も必要になってきます。なので、いかに夜間に物資をかき集めてくるかという点にだけ専念しておけばいいとも限らない厳しい現実があります。
とある探索先の壁に、「オレはお前の親友(味方)だ。訳もなくお前のことを撃つよ」と皮肉な内容の落書きがありました。リソースの奪い合いが発生し、普段は何てことない他人でも、隙あらば誰かを餌食にしようとする敵対者と化して、自分のまわりを嗅ぎ回っているのが戦時下ということなんでしょうね。そして相手からすれば、それは自分たちも同じです。少なくとも操作キャラクターの多くは強盗に強い抵抗を覚える良心を持ち合わせています。でも、相手が必ずしも同じとは限りませんし、追い詰められた自分たちも、ずっとまともな人間性を保っていられるほど余裕がなくなるかもしれません。
日本語の翻訳が利用できるんですが、ところどころ誤字脱字、文法があやしい言い回しなどが散見されます。ゲームのプレイは一応、支障なくできるはずです。翻訳作業でぐちゃぐちゃになったのかと思って原語を確認してみたんですが、文章の頭文字が抜け落ちていたり、キャラクターが手元にない道具を持っているようなセリフを口にしたり、分岐する選択肢で違う方を選んだ場合のリアクションが見られたりするミスが複数あったので、もとから全体に文章表現のクオリティは低めかなと思いました。
それでも重苦しい戦争の空気感や、極限状態で試される人間性など、ゲーム作品としてのメッセージは強烈に尖っているので、こういうところは化け物みたいな作品だなと感じました。先日の Fallout 76 のプレイ日記でもボヤいていたんですけど、日本のゲーム会社でも、大作ゲームに近年よく見られる特徴だと思っているのが、テキストに頼るタイプのゲーム性なんですよね。低予算化でゲームの作り込みの部分で断念しなければいけないことが多くなってきたときに、文章をプレイヤーに読ませて間をつないだり、物語に厚みを出そうとするタイプの作品が少なからずあって、いや、ゲームであって小説じゃないんだから、遊びの部分をきっちり作ってくれって私なんかはたびたび思っちゃうことがあります。この作品に関してはそういう感想がなくて、そういう点でも設計がうまいと感じました。
ゲーム性を考えても、サバイバルだけじゃなくて、いろんな要素に富んでいるので、The Sims シリーズ作品にどハマりしてゲームのプレイ日記を始めた身としては、戦争の重々しい倹しさをもうちょっと抑えて、これくらいのグラフィックでライフシミュレーション要素を強くしたゲーム作品を作ってくれたらまた買うのになと正直思いました。まあ、わがままなんですけどね。ライフシミュレーションって、本当、人気のわりにあんまり選択肢がないジャンルなんですよね。
ゲーム中、操作キャラクターの多くは、戦争なんて起こるはずないと思っていたと語ります。気がついたときには手遅れで、爆撃が日常的に起こる町から逃げ出せなくなっていたようです。あるいは、数か月だけですぐ終わると思って地下室で避難生活を始めたら、爆撃や軍からの命令で自宅に住み続けられなくなったと語るキャラクターもいます。続く避難生活のなかで家族が亡くなる者もいます。みんな気が付いたらもう何か月、あるいは数年もホームレス状態な日々が続いていて、誰にもいつこの悪夢が終わるのか見当がつかない状況です。
戦闘訓練も受けていない一般人は、戦争において、被害者の大多数を占める存在です。加えて、私のような普通の一般人が一番なりやすい、一番近い存在でもあります。戦争は誰の軒先でも起こりうるとこの作品では語られています。たぶん現実のウクライナ侵攻でも、ロシアがここまで過激な行動に出ると予想していた人はそんなに多くなかったと思います。戦争が起こると普通の人間はどうなるのか、それがゲームの起動とともに表示されるアーネスト・ヘミングウェイの引用で語られています。
They wrote in the old days that it is sweet and fitting to die for one’s country. But in modern war, there is nothing sweet nor fitting in your dying. You will die like a dog for no good reason.
Ernest Miller Hemingway(アーネスト・ヘミングウェイ), Notes on the Next War: A Serious Topical Letter(『次の戦争についてのメモ:時事問題の手紙』), 1935.
(その昔、母国のために命を捧げることは甘美で、かつ適切な行為だと評されたものだ。しかし現代戦では、死に甘美なものも適切なものもない。これといった理由もなく、犬のようにただ無残に死ぬ。)
実際に、ゲームでもうかうかしていると本当に惨めに犬死にします。敵に見つかってあっさり殺されるのはもちろん、拠点を強盗に襲われて致命傷、食べる物がなくて餓死、暖房の薪がなくて凍死、低体温と栄養失調が続いて病死など、枚挙にいとまがありません。貴重な物資を奪い合うライバルをうっかり殺してしまうとそれはそれで精神を病み、同居する仲間が亡くなるとうつ状態になって動けなくなります。身近な死の恐怖のバリエーションが豊富すぎて、選びたい放題です。
このゲームをやり始めたとき、ゲームが終わってご飯を用意したり、ハムスターのお世話をしていたら、なぜかいつもどおりなのに節約しなきゃ死んじゃうという強迫観念が頭の片隅に残っていることに気付きました。恐ろしいゲームです。
さらにやり続けて、その感覚にも慣れてきたときに、息抜きにストーリー性が強い DLC コンテンツをちょっとやったんでですが、妻を亡くして、病気の娘を抱えて廃墟にたどり着いた父親が必死になって娘のために奮闘して、自分のご飯さえ物々交換でなげうって、よろよろと這いつくばりながら崩れた階段をよじ登って娘が眠るベッドまで薬を運ぼうとする姿を見て、このゲームは本当にエグいなあとしみじみ思いました。ストーリーの流れだけを見ると、重症の愛娘のために身を粉にする親のありふれた物語で、陳腐にさえ感じるかもしれないんですが、戦時下の厳しさや惨めさがちゃんと描かれている作品で、操作キャラクターにある程度の愛着が湧いたときに、守ろうとしていた家族が無残に死んで、自分が生きる希望も、自分が努力してきたことも、すべてが水の泡になったときの絶望は筆舌に尽くし難い重みがあります。そもそも子供を失うっていう展開に私が弱いんです。絶対死んでほしくないもん。だからこんな戦争、絶対起こってほしくありません。
私がこのゲームをやるきっかけになったのはウクライナ侵攻ですが、それよりも前の2014年にリリースされたこの作品は、もともと1990年代に起こったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争をモチーフにしているそうです。
社会主義のユーゴスラビアからボスニア・ヘルツェゴビナ共和国が独立を宣言した際、独立を推し進めていたのは多数派のボシュニャク人とクロアチア人で、ボシュニャク人に次いで人口が多かったセルビア人は、ユーゴスラビア政府とのつながりが強かったために独立に反対していました。両者は独立宣言の翌月には争い始めて、やがてどの民族もこの内戦に乗じた勢力拡大を狙うようになります。最終的には、独立で同意していたボシュニャク人とクロアチア人の間でも争いが起こり、母体のユーゴスラビアや毎度おなじみ世界の警察気取りのアメリカ合衆国、社会主義相手となれば黙っていられない NATO といった外部からの干渉も含めて、大規模な戦闘がこの地で繰り広げられることになりました。
戦争の規模としては、死者20万人、難民200万人以上と、第二次世界大戦後のヨーロッパでは最大規模だったそうです。日本で戦争と言えば、その第二次世界大戦が最後で、だんだん当時を知る世代のほうが希少になってきています。でもこの作品は、まだまだこの生き地獄を経験した人間が現役で生きているほど最近の戦争を題材にしています。
ちょっと気になって、ウクライナはどうなのか調べてみたら、ウクライナの兵士が毎日100~200人前線で亡くなっているそうで、先日1万人を超えたという発表がありました。ロシア兵は4万人死んでいるというニュースもあります。民間人の身元不明の遺体が数千人分あるとのことですし、統計が追いついていないだけで、実際には恐ろしいほどの死傷者が出ていそうです。また、難民が600万人を超えたと先月ニュースが出ていたので、部分的に切り取った数字だけで戦争の被害を比較することはできませんが、やはり今起こっていることは歴史的なことなんだなとあらためて感じました。
ゲーム内の戦争については、詳しい情報があまり出てこないのでわかりませんが、祖父母が違う言語をしゃべっていたというだけでこのザマだというようなことを操作キャラクターの一人が述べていました。また、戦況について語るラジオで、ヴィセニ人とグラズニ人という架空の人種の名前が二つ出てくる場面もあり、民族間紛争なのは間違いないようです。
確かなのは、とある多民族国家で、一つの民族が政府軍によってポゴレンという名前の首都まで反乱軍として追い詰められ、包囲されている戦況だということです。市民ともども包囲されているという状況を考えると、現実のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、逆に独立宣言後にセルビア人側が優勢だったとき、首都のサラエヴォを守っていたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍を、セルビア人とユーゴスラビアの陣営が住民ともども取り囲んで封鎖したサラエヴォ包囲に状況が近いと思います。
舞台となっている国がどうやらグラズナヴィアというみたいなので、この名前の響きと、ヴィセニ人の方が少数派という操作キャラクターの言葉からして、グラズニ人が政府軍側で、ヴィセニ人が反乱軍側だと思います。また、探索先で見つかるポスターによると、ヴィセニ人たちはグラズナヴィアの首都ポゴレンを拠点に、もともとこの地はヴィセニ人たちのものだったと主張して、ヴィセニア、あるいはヴィセナという名前の共和国の建国を宣言していたようです。これが内乱の発端っぽいですね。息子が反乱軍に志願して出て行ったという操作キャラクターの一人は、どこぞの第三者がこの内乱から利益を得るために少数民族のヴィセニをたきつけたというふうなことを語っていました。
ゲーム内の紛争と現実のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を照らし合わせると、グラズニ人の政府軍がセルビア陣営をモチーフにしていて、ヴィセニ人の反乱軍がボシュニャク人とクロアチア人の陣営をモチーフにしているのかなと思ったんですが、ゲーム内でわかりやすいのは政府軍と反乱軍の対立だけで、どちらがどちらというような細かな説明はありません。停戦時に派遣されてきた軍も、平和維持軍というような呼び方で、国外から干渉してくる勢力の説明も簡略化されています。ゲーム内の情報が少ない上に、ゲーム独自のアレンジもあると思うので、素直に比較することは難しそうです。
操作キャラクターの一人に反乱軍側の脱走兵がいるんですが、彼が言うにはどちらの軍にも知り合いや兄弟がいるような状況だったみたいです。内戦なので、ある程度近い地域に住んでいた人間同士の争いです。血統でざっくり線引きして戦うことになったとしても、混血は進んでいるし、一緒に育った友達も少なくなかったはずです。ここらへんはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、というか、東欧の多民族地域の紛争ではよくある話だったみたいですね。民族浄化云々の活動を過激派が推し進めても、しょせんはご近所さん同士の戦いで、まともな感覚の人間は戦地で困惑する場面も少なくなかったようです。
ラジオで聞けるニュースに、市場で爆撃があり、死傷者が多数出たというものがあります。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結前にセルビア人が、非戦闘区域である市場に向かっておこなった爆撃をモチーフにしている可能性があります。これにより NATO がセルビア人軍に大規模な空爆をおこなうことになり、戦力の弱体化が進んで停戦への道筋ができていきました。同じく、ゲームには二人の軍人が拠点にしている空港のマップが出てくるんですが、これが現実のサラエヴォ国際空港をモチーフにしているなら、ここの軍人はセルビア人が、包囲網から抜け出そうとするサラエヴォの市民を射殺していたことの再現だと思います。ほかにも市民が狙撃をやたらと恐れていたり、探索先の高層ビル建築現場に政府軍の狙撃兵が潜伏していたりする点は、サラエヴォ包囲のときにセルビア人の陣営が町への砲撃に加え、狙撃兵による無差別射撃もおこなっていたことをなぞっているものと思われます。
ゲーム内の政府軍は反乱軍を潰すため、拠点がありそうな地域に爆撃を仕掛けているほか、市民に反乱軍の疑いをかけてつるし上げ、果てはその場で処刑するなどの暴挙に出ています。首都に取り残された民間人のために救援物資が送られてくると、最終的には反乱軍の手に渡ると主張して、都市の中に物資を運ばせませんでした。ほかにもスーパーに物を漁りに来た女性を襲おうとする兵士の姿も描かれています。ゲーム内で心証が悪いのは明らかに政府軍の方です。
女性が襲われるイベントはほかにもゲーム内に複数あります。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でも民族間紛争が主軸になっていただけに、敵対種族の女性を意図的に妊娠させる性的暴行が横行していたらしいので、それの再現かもしれません。政府軍に目立つ残虐さは、紛争中にセルビア人の陣営がおこなっていたことに近い気がします。それに反発して国外の勢力がボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍側についたことで、セルビア人とユーゴスラビアの陣営が有利だった戦況が徐々に逆転していくことになりました。
じゃあ市民視点では反乱軍のほうが市民寄りなのかと言えば、操作キャラクターが前線の駐屯地に向かったときに、ここがどちらの陣営なのかももう忘れたというようなことを口にしているので怪しいところがあります。結局、市民視点ではどちらも似たようなものなんだと思います。
反乱軍側で戦っていた脱走兵のキャラクターが、戦争が激化するにつれて、どこに敵が潜んでいるのかわからないと味方も疑心暗鬼になり始め、道で自分のことをジロジロ見てくると感じただけで誰でも先制して撃ち殺すという状態に陥っていたと語ります。また別の操作キャラクターは、政府軍に情報を流す内通者がいるんじゃないかと反乱軍側の民兵に疑われて父親と姉妹を失っています。彼女曰く、本当に疑いがあるかどうかは単なる口実で、実際は追い詰められた反乱軍の陣営が、金目の物を市民から奪いたかっただけだったんだろうとのことでした。探索先で遭遇する NPC は「戦争で最悪なのは、他人だ」と語っていました。たぶん、誰も信用できないのが、この地獄なんでしょう。
戦争を描いたゲーム作品だと、戦争になって苦しむのは民だと為政者のキャラクターが当たり前のように口にして解決策を模索したり、あわよくばその経験を通じて指導者としての成長が描かれたりもします。そもそも戦争も、絶対権力を笠に着て悪行の限りを尽くす側と、それに対抗する正義のレジスタンスみたいな構造で描かれたりしがちです。あるいは、戦闘訓練を積んでいたり、類いまれなる戦闘センスを持っていたりする選ばれし存在が主軸になって、戦いを通じて戦争の力関係に関与し、自分にできることを模索しながら成長していく物語になっていることも多いです。このゲームをプレイすると、戦時中に人として成長する機会を見出そうとするなんて、なんて優雅なんだろうと思うようになります。
このゲームには特別な地位にある人間はだれ一人登場せず、みんな戦争をとめる力など持っていません。家族や友人を助けられないことも少なくないし、そればかりか、自分が道端で野垂れ死ぬことになっても世間的には大きな影響もない一般人だらけです。政府軍は作中でも率先して市民を暴行しているし、反乱軍にも市民を助ける余裕がなく、彼らの安全など気にもかけていません。町は己の正義を振りかざして武力を振るう軍人と、士気が落ちて自暴自棄になっている脱走兵と、混乱に乗じて人殺しや強奪を楽しむ犯罪者であふれかえっていて、とても人がまともに生活できる治安ではなくなっています。自分には何もできない、誰も信じられないという絶望的な状況で無力さを思い知るばかりです。繰り返しになりますが、これが一般人視点のありがちな戦争だと思います。だから戦争やめようぜという訴えに現実味が出てくるわけです。
どちらが政府軍で、どちらが反乱軍なのか、もはや違いがわからないという庶民の感覚は、とてもリアルだと思います。国のトップにもなると譲れない権力抗争などがあるんでしょうが、一般市民からすれば、よくも悪くも知ったこっちゃありません。毎日幸せな生活を送れることが一番なわけで、両軍はともにその庶民の生活を壊す存在です。
民衆は概してわがままです。小難しいことは抜きにして、都合良く幸せに暮らせる社会を用意してくれるリーダーを望みますし、利用されて終わりたくないリーダーは、手に入れた権力でやりたいことをしたくなるものなんだと思います。日本でも世間や政治家の文句を言いつつ、投票率はなかなか上がらないというような問題が取沙汰されることがありますが、戦争において、被害者である民衆も、突き詰めていけば、けっして非力だからでは帳消しにできない根深い無責任さもあって、もがき苦しんで生き残ろうとする操作キャラクターたちの姿に、そういう業の深さというか、払い損ねたツケみたいなものが表れているようにも感じます。もちろん戦争被害に巻き込まれた人々が自業自得だとか、そんなことを言いたいわけではありません。多民族かつ多宗教で、民主主義と社会主義の板挟みになっている地域には、日本人が簡単に想像できない複雑さがあって当然でしょう。ただ、これは見る側が自戒すべき問題でもあると思ったんですよね。その点で、この作品は反戦を主題に掲げた戦争ゲームとして、とても成功していると感じます。数時間やると、「もう戦争やめてー!」ってなりますもん。
11 bit studios はロシアによるウクライナ侵攻が始まってすぐウクライナへの支援を表明し、以後7日間の売上げをウクライナの赤十字に寄付しています。そもそもウクライナの侵攻が始まる前から、この作品の売上げは戦災孤児の支援基金など、戦争被害者の支援に役立てられてきました。
悪名高いアウシュヴィッツをはじめ、ポーランドは言うまでもなく、第二次世界大戦で数々の悲劇の舞台となった国です。ウクライナ侵攻から支援まで行動が早かったのも、同国が長年ロシアと交戦してきた歴史があったところも大きいと思います。自国の歴史、文化的背景に戦争が大きく絡んでいることを自覚しているからこそ、同国では政府肝いりで戦争について学ぶ教育が広められ、本作のような戦争ついて考える機会を提供する作品作りが推進されているそうです。This War of Mine はゲームというメディアを用いた作品ですが、同国の学生向け文部省公認読書リストに入っているとのことです。
ロシアがウクライナを攻撃し始めたとき、日本のゲーム製作者でも戦争反対を掲げてウクライナの支援に乗り出す方を何名か見ました。ゲームは戦争を題材にした作品が多く、わざわざ戦争を描くのは、人と人との争いに反対しているからだというのが彼らの意見でした。
でも、戦争を扱っているゲームで、うまく反戦のメッセージを出せている作品はまだまだ少ないと私は感じています。とくにこの This War of Mine をプレイしたあとだと、いずれも稚拙な主張でしかなかったなとあらためて考えてしまいます。ぶっちゃけ「反戦」は戦争ゲームを作る際の言い訳になっているのが現実だと思います。
前に別の記事にも書いていたんですけど、反戦と言えば長年 KONAMI で METAL GEAR シリーズを手がけていた小島秀夫監督がよく口にしていた言葉です。私個人は、彼の反戦のロジックがまったく理解できないので、これも詭弁だと思っていると以前から DEATH STRANDING のプレイ日記に書いていました。反戦を大切なテーマと主張していたわりには、ウクライナ侵攻の際に気の利いたコメントも、支援の発表も、何もなく総スルーしていたんですよね。
数日前にやっと日本に避難してきたウクライナの方々を支援するためのチャリティ企画が立ち上げられていましたが、それまで Twitter でわずかにリツイートしていたのは、なぜウクライナ侵攻が起こったのかということを解説したニュース記事へのリンク紹介ぐらいでした。現行の KOJIMA PRODUCTIONS 代表作の DEATH STRANDING だって、人と人とのつながりとか言って、キレイなメッセージ性を前面に押し出していたのに、反応が悪すぎるし、アクションが遅すぎると感じます。
これもほかのゲーム日記に書いていましたが、本当に反戦を自分の作品作りの主軸にして、日頃から関心を寄せていたのなら、実際に世界大戦に発展しそうなぐらい大きな戦争が現実に起こったときに、黙っていられないしジッとしていられないのが人のさがだと思うんですよね。無関心を決め込めるのは、つまり反戦というテーマにも最初からそういう温度感だったってことなんじゃないかなという疑問が残ります。
その点、FINAL FANTASY VII REMAKE の完全版商法で愛想が尽きて、うちのプレイ日記を全部消去したスクウェア・エニックスのほうが、50万米ドルの寄付を発表したので見直していたぐらいです。これでも発表を見たときは、ずいぶんと遅いと感じたものですが、企業なら株主だ役員だの許可云々できっと大変なんでしょう。
スクウェア・エニックス・グループは、ウクライナにおいて被災された方々や、周辺地域に避難された方々への人道支援を目的として、国連UNHCR協会を通じて、義援金50万米ドルを寄付することを決定いたしました。
ニュースリリース『スクウェア・エニックス・グループ、ウクライナにおける人道支援を目的とした寄付を実施』
また、グループ各社において社員募金を実施し、集まった募金と同額を寄付するマッチング制度による人道支援を目的とした追加寄付も行う予定です。
スクウェア・エニックス・グループは、この度の事態に際し、一刻も早く平和が戻り、被災された方々が日常を取り戻されることを心から願っています。
あ、FINAL FANTASY VII REMAKE INTERGRADE は Steam 版の配信が始まるそうですね。うちは前にも書いたとおり、もうやる予定はありませんが。
あと、派生作品の Crisis Core もある程度お披露目できるところまでリメイク版の開発が進んでいるようです。お得意のリメイク商法に完全版商法まで組み合わせて、長年 FINAL FANTASY シリーズのファンだった、それもリリース直後にハードウェアごとリメイク版を購入するような熱心なファンから、ソニーと一緒に組んでしこたまお金を巻き上げていたのも、ウクライナで苦しむ市民を支援するための資金集めだったのかと考えると、ちょっと印象の悪さが和らいだ気がします。
日本の反戦ゲームを見て考えているときに、しょせんゲームの反戦なんてこんなもんなんだなとちょっと思ってしまいました。なぜかというと、反戦みたいな堅苦しいメッセージでゲームの面白さを作り出すのが、普通に考えても難しいからだと思います。
DEATH STRANDING だって、人と人とのつながりを拒絶するのはよくないだとか、武器よりも手を取り合おうというようなメッセージが強調されています。これまでずっと批判されてきた METAL GEAR SOLID シリーズの暴力的な要素をなるべくそぎ落とす形で DEATH STRANDING の主人公サムが登場したと私は考えていました。個人的には配達という一見地味ながら、庶民の生活を支える大事なお仕事に没頭するゲーム設計は、あまりゲームとしてはツボにハマるものではありませんでしたが、ゲーム製作者が何を意図してこの作品作りに挑んだのかという点に興味を引かれたので、2周目のプレイで詳しい情報を調べながらプレイ日記を書き残して、自分なりにその意図が理解できないか試みていました。
でも完全版の Director’s Cut の追加要素には、兵器かと見間違うような配達道具や、新しい武器のバリエーション、その武器を抱えてほかのプレイヤーと成績を競う演習プログラムなど、どことなく、METAL GEAR SOLID シリーズを彷彿とさせるものも少なくなかったんですよね。古巣を飛び出して、新しく自身で立ち上げた会社の代表作になる DEATH STRANDING には、過去の作品とは一線を画すクリエイターの進化が見られるはずだと私は思っていました。それが結局、Director’s Cut が出たことで、また一気に出戻りになったような印象を覚えました。DEATH STRANDING で小島監督が提唱したかった新しい遊びのおもしろさがうまく証明できず、大人の事情で実績がある遊びに戻らざるをえなかったんじゃないかなという疑問さえ浮かび上がってきます。最低でも一本筋が通った作品作りができると思っていたクリエイターが、迷走していると私は感じました。
DEATH STRANDING の主人公サムは、ただの地味な配達人ではありません。政府の後継とも言える大きな組織に所属して、組織の存亡が掛かった大きなプロジェクトを一人で進めています。みんなの期待を一身に背負うエリートのポジションに就いています。その任務を遂行するために、後ろ盾になっている組織から最新鋭の兵器を与えられて、その気になれば道行く人の脳天に弾丸を撃ち込むこともできる環境が与えられています。一つの国を揺るがす大きな抗争を利用して、最新鋭の武器を駆使して現場を駆け巡り、一旗揚げるゲームなんて、METAL GEAR SOLID シリーズと同じただの戦争を利用したゲームです。戦争を利用して遊ぶ設計にしておきながら、反戦ですとしれっと口にできる神経が理解できないんですよね。
競い合って勝つというのは、生物として野生を生き抜いてきた本能的な報酬があるので、ゲームにするのは簡単です。必然的に戦うゲームは多くなります。小島監督は DEATH STRANDING のプロモーション中に、簡単に収益を上げられるゲームの代表格としてバトル・ロイヤルものの作風を挙げて露骨に批判してましたけど、METAL GEAR SOLID シリーズも私からしてみれば大差ありません。むしろひねくれて、自分がしていることをきちんと自覚しているかどうかも怪しいぶん、始末が悪いと感じています。
戦争に身を投じて、戦争をとめることで反戦のメッセージ性を出そうとする作品は、当然ながら、概して登場キャラクターに権力や純粋な力があるパターンが多く、直接的な武力衝突を控えめに描いていたとしても、権力争いをはじめ、自分はもちろん、他人の状況さえもコントロールできる優越感で隙間を埋めようとする傾向があります。武力による原始的な競争の勝ち負けが、多少複雑化して、社会的な立ち位置の優劣にすり替わって、社会的欲求が満たされる充足感がゲームの報酬になっているような構造です。
DEATH STRANDING でも、主人公がいやいや物語の表舞台に引っ張り出されて、なぜだか世界を救う大役を担います。めちゃくちゃ特殊能力に秀でた女性キャラクターが、煮え切らない主人公に対して、幾度となく主人公にしかできないとお膳立てを試みます。小島作品はわりとご都合主義な展開が多くて、群像劇を描こうとしているというよりは、このキャラクターはこうならなくちゃダメという主観の強いこだわりで物語が形成されている印象が強めです。かっこよくあるべき主人公には、人間性や倫理観が問われる小難しい問題があまり降りかからないようになっているし、逆に女性キャラクターの不幸は徹底して描かれることが多いし、敵対キャラクターも人間のエグミがこれでもかと出るような境遇に意図的に置かれる傾向が強くなっています。
戦争に関与し、何らかの影響力を持つ者が、戦争の中でなんらかの行動を起こして、それを通じて成長するっていう物語は、むしろ戦争を起こして利用する側の立ち位置に近いんですよね。METAL GEAR SOLID シリーズもまさにそうです。戦争を影で操る権力者とドンパチやってきたのが歴代主人公たちで、主人公たちにはそれをするだけの恵まれた素質がありました。結局、戦争っていう混沌とした状況に乗じて、いかに自分を大きく見せるか、自分の影響力を大きくするか、自分の成長を見せられるかっていう戦いなわけで、それ自体が利己的な動機です。かつ、戦争の一端を担っています。そんな戦争で充足感を得て楽しめてる時点で、反戦のメッセージになるはずがないんですよ。
それだったら、単純に誰が強いのか一番を決めようぜっていう安全な遊び場を設けて、仮想空間のなかできちんとルールを決めて殴り合うゲームの方が、なんぼか健全だと私は思うんですよ。本能的な戦闘の欲求を発散できるし、暴力表現はよくないという批判は付き物ですけど、最近は家族や友人とこうしたゲームで遊ぶことで少なからず現実の社会性にもいい影響が見込めるという研究もあるし、大前提として基本は無害なゲームだし、良識がちゃんとある人間同士なら、きちんとした遊びになります。架空の戦争を自分の社会的欲求を満たす機会に利用するだけならまだしも、これは反戦ですとケロッと言い訳してしまう精神の方がよっぽど病んでいて害をはらんでいると思います。
小島作品の軽視できないいびつさに、女性キャラクターがことごとく不遇な目に遭う共通点を挙げたことがあります。This War of Mine でも先述の通り、女性が暴力を受ける描写が散見されます。戦争に性暴力は付き物です。日本は長らく戦争をしていませんけど、阪神淡路大震災や東日本大震災など、未曾有の災害が起こると混乱に乗じて同様にこの手の犯罪が増加します。上に FINAL FANTASY シリーズが出てきたので、ついでに触れておくと、FINAL FANTASY TACTICS もシリーズ作品の中では戦争と性的暴行を受ける女性の描写が組み込まれた作品でした。それ自体は悪いことではありません。問題は、その描写に価値があるのか、何かメッセージ性はあるのかというところです。
性犯罪は単なる性欲の爆発ではなく、少なからず被害者を自分の支配下に置きたいという社会的欲求が動機になっています。相手の意思に関係なく、自然界ではリソースとして価値の高い生殖相手を自分の身近に置いておける充足感の追求、そしてそうできるだけの能力の誇示や、自分のさじ加減で感情や人生、場合によっては命さえも支配できる相手がいる状況の構築など、自分はすごい存在だとアピールしたい個体がやることです。いわゆるマウント行為と暴力のコンビネーションです。
METAL GEAR SOLID V: GROUND ZEROES から THE PHANTOM PAIN にかけて描かれたパスという女性キャラクターは、小島監督自身が恋愛ゲームの『ときめきメモリアル』に推すほど、若い女性的な魅力が前面に押し出されたキャラクターでした。でも彼はそんな彼女を裏切り者のスパイという設定にして、続編でその報復にレイプ被害に遭う描写を入れ、さらに最後には内臓の代わりに爆弾を体内に詰め込まれて人間爆弾として木っ端微塵になる結末を描きました。開発者のインタビューによると、麻酔なしで開腹手術をすると人間はどうなるのかなど、リサーチを重ねてかなりこだわったシーンだったらしいです。ヒロインの悲劇を描くにしては少々過激な描写です。
確かにナイジェリアの過激派組織のボコ・ハラムなど、世界には少女たちを誘拐し、未来の戦闘員候補となる自分の子を産ませようと性的暴行を加えて、拒む娘には自爆テロを強要する組織もあります。現実に起こっていることの再現で、そこからプレイヤーに何かを感じてほしい、考える機会になってほしいといった趣向なら、きちんとリサーチしてゲームに組み込むことは悪いことではありません。ただ、私は安易な反戦の主張と同じで、実際は怪しいと思っています。
DEATH STRANDING には、これからヒロインの一人であるフラジャイルが過去に受けた暴行を主人公に告げるシーンがあります。ぱっと見、露骨な性的要素はありませんが、服を脱がされて、下着のまま有害な雨が降りしきる中、大多数の市民を守るために爆弾を一人で運ぶよう敵対キャラクターに強要されるひどい状況になっています。フラジャイルはこの前にシャワーシーンが差し込まれるなど、女性キャラクターの中でも肌の露出が多くなっていて、同作のいわゆるお色気担当も兼ねていると考えられます。このシーンも年齢制限などの表現上の制約がなければ、丸裸にされて当然の場面だと思います。
服を脱がせるのは、物語の設定上、一気に加齢が進む特殊な雨を肌に直接浴びさせる暴行の意味合いがありますが、まず基本として、本人の意図に反して服を剥いで肌を露出させるのは性的なハラスメントです。私はこのシーン、小島監督の歪んだ性癖が爆発したシーンだと推測しています。通常なら仲睦まじい男女のキャラクターが普通に愛を育むシーンを差し込めばいいだけなのに、わざわざこういう暴力を含むシーンを性的なコンテンツとして扱い、自身の作品に混ぜてきていると考えています。私の読みが当たっているなら、非常に悪質です。
小島作品の女性キャラクターや登場人物の恋愛の描かれ方を見て、私は彼がまともに恋愛できない人間なんじゃないかなと推測していました。そもそも彼の作品を見ていると、女性キャラクターがほとんど出てこない作品も普通にあるし、出てきても異様に異性受けする女性の魅力が強調されたキャラクターしかいなかったり、不幸になる女、自己犠牲を選ぶ女が多かったりします。そして普通に心温まる恋愛が極端に少ないのも大きな特徴です。
DEATH STRANDING でも恋人になるカイラル・アーティストとジャンク屋がやっと出てきたと思ったら、最初から女性側が相手にベタ惚れ状態で、仲違いして勝手に仲直りするというよくわからない経緯をたどります。そこにプレイヤーが主人公を介して介入できることもなければ、当人らの気持ちの変化もろくに語られないのでよくわからず、感情移入することもままなりません。そもそも小島作品は、女性が勝手に男に惚れている状況が都合良く出来上がっていることが多く、男女の関係が健全に構築されていく過程の物語というもの自体が希有だったりします。たぶん、本人ができないことだからじゃないかなと、私は考えました。だから愛情表現としての性的なコンテンツはないに等しく、代わりに衝動的な欲求の爆発として暴力を伴って描かれるエロチシズムが多くなっています。
先に DEATH STRANDING のプレイ日記に書きましたが、この暴力的なエロチシズムに関して、彼の頭の中がどうなっているのかを的確に表しているなと思ったのが、性加害のスキャンダルで一時話題になった俳優の木村ほうかさんについて『日刊ゲンダイ DIGITAL』で語られていた心理学者の富田隆氏の説明でした。彼は性加害を引き起こす男性心理について、以下のように語っています。
人間関係を構築することができない人といえます。好意があっても信頼関係を築くのではなく“言うことを聞かせる”ことでしか関係を築けない。つまり、力しか信じておらず、男同士の人間関係も上下関係のみでしょう。一方的に押し付けるので後輩には好かれない。そのくせ親分には下手に出るというタイプ。こういう人の周りには同じ価値観で動いている人たちがいます。たまたま木下さんが有名だったから話題になっているだけで、他にも同じような価値観の男性がいると考えられます。
『木下ほうかに“性暴力”被害の告白続々! 長年繰り返した余罪と行動心理を専門家が解説』
私は小島秀夫という人も、似た脳の構造をしているんじゃないかと考えています。人間関係を上下でしか築けないのは、身近なところだとアスペルガーと昔に呼ばれていた発達障害の ASD 傾向が強い方などがいます。ほかにも共感性が低いサイコパスは会社の経営者などに多いと言われていて、先天的な脳機能の違いから、一般的に健全とされる人間関係を築きにくいと言われています。彼が具体的にどういう思想の持ち主で、それが先天的な脳の構造によるものなのか、後天的なトラウマのような経験からくる思考パターンによるものなのかはよくわかりませんが、少なくとも一人の人間と真っ当に向き合って人間関係を築くには社会性に少し欠けていて、人と関係を築かなければならないとなったときに、相互に働きかけがあって関係を築いていくというよりかは、最初から上下で白黒はっきりさせたがるタイプなんじゃないかなという感じが作品の物語の展開に見受けられます。そこにちらちらと見え隠れするのが、女は基本、問答無用でみんなオレらより下というような思想です。おそらく、フラジャイルのように、意中の女性と関係を築くとき、信頼や愛といったものは最初から眼中になく、相手の女性がみすぼらしく這いつくばる屈辱的な境遇に置かれることで、自分が上、相手が下という関係をきちんと認識でき、歪んだ脳内でそれが心を満たす自分の交友関係としてはじめてカウントされる特殊な思考なんだと思います。
「こういう人の周りには同じ価値観で動いている人たちがいます」と解説されていましたが、小島監督の周りって、KONAMI 時代から女性の有名なスタッフさんが少ないと感じています。KOJIMA PRODUCTIONS の公式サイトで求人情報を探してみると、イメージ画像のほとんどが男性であることに気付きます。
This War of Mine には、負傷した夫を助けるために勇敢に家の外に出て必要な物資をかき集めてくる女性もいます。戦争のような過酷な状況では、誰しも必死でもがかないと生き残れません。そもそも身体的な特徴として男性の方が総じて力が強めになっていますが、そのぶん女性キャラクターはメンタルが強く、協調性を活かして仲間にポジティブな影響を与えられるキャラクターも少なくありません。また、女性の中にも、ステルス戦術が得意で、脱走兵並みに戦闘で活躍できる女性キャラクターもいます。過酷な状況でも賢く生き抜く女性たちの姿がちゃんと描かれた上で、大人も子供も、年齢も性差も関係なく、容赦なく襲う厳しい現実が一通り描かれた中の性被害です。
また、性被害に遭う女性の具体的な被害シーンが作中描かれることはありません。例えば、性的な行為をするように銃で脅され、暴力を振るわれたあと、男性と二人きりで入って行った部屋から女性のすすり泣きが聞こえるという程度のもので、被害そのものは描かれていません。女性の肌が見えることすらありません。ヒロインが受けた拷問シーンを生々しくリアルに描くこだわりを見せる小島監督とは正反対です。これ、何が言いたいのかというと、結局おこぼれのエロ・シーンにすら利用されていないということです。淡々と、戦時中に実際にあった被害がわかるように描き、それを見て、それを知って、何を感じ、何を考えるのかはプレイヤーに委ねるというスタンスになっています。
私が疑問に感じてきた日本の戦争ゲームで、性被害を取り扱う作品って、戦争の過酷さを演出する要素にもなるし、エロ・コンテンツにもなるからという安易な需要で、性被害に遭うかわいい非力な女性が描かれていることがぶっちゃけ多かったと思うんですよ。その証拠に、じゃあ被害を受けた女性はどうかという女性目線の被害者主体のメッセージが空っぽなことが圧倒的に多いです。This War of Mine で名も無い女性を兵士の性暴力から救うと、ショックで動けなくなった女性の代わりに、また別の女性が操作キャラクターに歩み寄ってきて、助けてくれたお礼を述べてくれますし、性犯罪みたいなしょうもない犯罪を未然に防げたことで、コミュニティの士気も上がります。
そもそも日本のゲーム業界自体、男社会なことが多くて、一昔前のオタク文化特有のインボランタリー・セリベイト臭が強い女性嫌悪が当たり前のように見られるところがあります。ここらへんの異性の描写や、ジェンダーがどうこうといった俗に言う意識高い系の描写は、自分の内面をまずきちんと見つめ直して感覚を時代に合わせてアップデートしていかないと描けない範囲なんですよね。私は、社会の性質上、また日本のゲーム業界の性質上、こういう分野の問題は、日本のゲーム製作者はことごとく不得手なんじゃないかという印象を勝手に持っています。
オレはこんなにもスゲェんだと主張したい男性目線の物語が多くて、自分が頑張っていると思い込んでいるぶん、楽や手抜きをしていると思われる他者が許せずに攻撃性が爆発してしまうんでしょうね。でも、実際のところ自分が視野狭窄で精神的に追い詰められているだけなので、本当に身を切って自分のテーマみたいなものと向き合えているかというと疑問符が常につきまといます。反戦を掲げていた小島監督は、ウクライナ侵攻に際して長い間とくに支援の発表もしませんでしたけど、過去に彼が安直なお金儲けのための暴力ゲームと批判したバトル・ロイヤル系の『フォートナイト』は、ウクライナ支援に180億円寄付すると発表しているので皮肉です。KOJIMA PRODUCTIONS がいくらオリジナル商品をファン向けに販売したとしても、180億円の支援はできないでしょう。
『フォートナイト』はテニス・プレイヤーの大坂なおみさんともコラボしているし、プレイヤーがなりたい自分になれる自己表現の場になるようにと、様々なスキンやコスチュームを販売しています。ハイチ系アメリカ人と日本人の血を引くマイノリティの女性で、そこら辺の男性よりよっぽど身体能力が高いアスリート、しかも自分の意見をしっかりと口にする女性キャラクターなんて、まず小島作品に登場することはないでしょ。人と人とのつながりと言いつつ、登場人物の性別や年齢、人種に明らかな偏りがある小島作品よりも、『フォートナイト』のほうがよっぽど自分の作品作りのテーマと真摯に向き合っているように見えるし、健全に見えるというのが正直なところです。
こういう観点で言うと、和製 RPG 代表格の FINAL FANTASY シリーズとかもしょせん似たようなものなんですよね。先にタイトルを挙げた TACTICS は重厚なストーリーが特徴としてよく挙げられますけど、ほかのシリーズ作品と同様、自分のことを大きく見せたい男性目線で、選ばれし男の生き様を描く性質が強く出ているところがあって、結局それ以外の要素はそのために利用されて軽視されているというのが実情だと思います。
そもそも物語全体を見ても TACTICS は明らかに物語の終盤のまとめかたが乱雑で、後半は突然のファンタジー要素で前半の味が揉み消されて、洗練されていなかった印象が強く残ります。前半に強く描かれていた階級社会やマイノリティなどの社会問題については、それで放り出される格好になるので、作品のメッセージ自体がぼんやりとしている感が否めません。戦争の中で消されていった力を持たない者たちはどうなのか、それを描くことで作品が訴えたかったことは何かというところが見えてこないんですよね。女性の姿にしても、歴史の波に大きくのまれる王女オヴェリアは非力なまま利用され、男性に庇護される存在でしかありませんし、戦争の中で性的暴行を受けた女性の戦士は存在しても、彼女たちの目線で何かが描かれ、学びにつながることは少ないです。ここら辺は戦争の過酷さを描くついでに生じる棚ぼたエロ・コンテンツと大差ありません。
This War of Mine は戦争の無慈悲さを描きながら、そんな状況でも人間性を失わないようにしなければという人間の葛藤が中心に描かれていて、戦争の中で起こる盗み、暴力、殺人などの行為にもカルマのようなものが常につきまといます。
TACTICS に関しては、ディレクターと脚本を兼任し、開発の中心人物だった松野泰己さんが、オンラインゲームの FINAL FANTASY XIV に関連コンテンツの Return to Ivalice が追加された際に、XIV のプロデューサー兼ディレクターの吉田直樹さんや当時の開発スタッフさんたちと一緒に、同作をプレイして開発当時を振り返る公式配信をされたことがあります。そのときに、個人的にちょっと気持ち悪いなと思ったことがありました。
なんでもこの作品を出した翌年ぐらいの株式総会で、なぜあんなひどいエンディングにしたのかと質問されたそうです。そのことを述べる際に、「高校生の女の子」から質問されたという点にわざわざ言及していました。結局よく思い返すとその女の子がした質問ではなかったそうですが、わざわざ質問者の属性として女子高生であった点に触れるあたり、ちょっとこの人も思考が偏ってる感じがするなと考えていました。
それが明確になったのは、Twitter で FINAL FANTASY XIV の女性キャラクターの年齢が変更されたときです。
年齢が変更になったのは、きちんとした理由があるのでかまわないんですけど、続けて松野さんがこの年齢の変化を「ナーフ」であると揶揄するようなネタを Twitter に投稿したんですよね。ちなみに FINAL FANTASY XIV ではお尻が大きく見える衣装に修正が入って、着用キャラクターのお尻のボリュームが設計どおり比較的小ぶりになったときに「お尻ナーフ」の表現が流行ったので、それに乗っかれると思ったんだと思います。
ただ、ほかにも年齢が変更された男性キャラクターがいるのに、妙齢の女性キャラクターだけをイジって、同じように笑いのネタにできると思ってる時点で感性が昭和のオッサンのセクハラをセクハラと自覚できていないレベルなんですよね。これを最初に見たときにどうかなと思って、海外のゲーム翻訳者にも話題を振ったことがあるんですけど、一部はめちゃくちゃ不快感を募らせて、なんで私が怒られてるのってレベルで延々チャットで話を聞くハメになったんですよ。スクウェア・エニックスが代表作の FINAL FANTASY XIV で、まだ彼のコンテンツにすがっているのが信じられないと騒いでいました。そこから延々、日本のゲーム業界は男尊女卑の考えが根付いてて云々の話が続くんですよ。日本のゲーム業界って、ホント、こういう次元止まりなんだと思います。
女性というだけでつきまとう年齢差別は、例えば有名どころだとマドンナあたりの女性アーティストが何度も声を上げてきた問題です。テイラー・スウィフトも30歳になった頃のインタビューで、交際する男性との関係について、年齢差別かつ性差別的な質問を受けて、「男性が30歳になるときに同じ質問をされるとは思えません。だから今その質問には答えません」と言って回答を明確に拒否したことがありました。大衆の注目が集まる業界の世界的トップ・アーティストも苦慮している問題です。
たぶんスクウェア・エニックスみたいな会社でも、松野さんのような大きな影響力を持つ男性スタッフに、社内で毎日ネタのように気分を害されている若くない女性社員がたくさんいるんでしょうね。日本の企業としてもめずらしくないのかなと思うと、普通に悲劇ですよね。そんな開発現場から、はたしてプレイヤーの心に響く珠玉の物語が生まれるのかという疑問を感じずにはいられません。
これもほかの記事に書いたことがありますが、現在絶賛リメイク作品の開発が進んでいる FINAL FANTASY VII の後日譚、ADVENT CHILDREN も主人公のクラウドが病を患いながら、男に生まれたというだけで一人で敵に立ち向かう境遇に置かれる展開になっています。敵と対峙しようとせず、争いを避けるために姿を消したクラウドについて、ヒロインのティファがお説教をしないといけないと発言したりもします。
これについて、男ならつらいことにも立ち向かわなければならないとか、逃げるのは男のやることじゃないとか、男だったらこれくらい乗り越えて当然だという、いかにも前時代的な男性差別が炸裂している作風だなと以前に指摘していました。こうやって負担を感じた男性が、女は楽でいいよなという偏見を膨らませてミソジニー的な思想が誕生する悪循環が生まれると思うんですよね。FINAL FANTASY VII 関連の作品は、松野さんではなく野島一成さんが脚本を担当されている場合がほとんどですが、スクウェア・エニックスには、総じてこういう独特なジェンダー論をドヤ顔で展開する習性があります。話題をもとに戻すと、そんな会社がはたしてどんな物語を作れるのかって話になってくるんですよね。
プレイ日記を書いていた FINAL FANTASY XV だって、主人公の死を美化する作品でした。This War of Mine では、どれだけ国の威信のためにみたいなきれい事を並べても、現代戦では無駄死にであるというアーネスト・ヘミングウェイの言葉を冒頭に引用して、戦争による死に価値などないことを強調しています。前世紀の前半には著名人がこうもはっきり述べているのに、日本のゲーム会社はいまだに大手が気高い死はカッコいいと主張する作品を世に送り出しています。それも本人が望んでそうなったのならともかく、少なくとも XV の主人公は死にたくないという感情を胸に秘めて、周囲の圧力からこれも自分の務めだと悟って命を捧げる描写になっていました。本人が望んでいないのに男だからという理由で戦い続けることを強いられた VII のクラウドと同じです。本人の意思なんて気にも留めず、お前の犠牲には尊い価値があると死を飾り立てる会社にどんな物語が作れるんでしょうね? 逆に言うと、そんな空気の会社で作品作りをしているクリエイターに何が生み出せるんでしょうね?
This War of Mine には、息子が反乱軍に加わって帰ってこず、子の代わりに孫の世話をし続けている男性の操作キャラクターがいます。戦争を生き抜いた彼が望んでいたことは、息子をはじめとした反乱軍の手によって自分たちの旧都が他民族の手から奪還されることではなく、息子が人を傷つける戦犯にならず、かつ孫と一緒に幸せに生きてほしいということだけです。
もう一度一巡して、日本のゲーム会社には、This War of Mine のような鋭利なメッセージの社会派作品はもうしばらく作れないだろうなって、ちょっと寂しい気持ちになったんです。たぶん、意識高い系の作品が出たとしても、せいぜい意識高い系のオレを演出するための自己実現や現実逃避の小道具でしかなかったりするんじゃないかなっていう気がします。だからゲームをプレイしただけでは何を作りたかったのかいまいち伝わってこず、逆にクリエイターが前にしゃしゃりでてきて、あれはこうでね、これはこうでねと詭弁で作品の解釈を塗り固める場が必要になっているんじゃないかという気がします。ちょっと悲しいですね。