仕切り直しの第二次遠征隊日記 NO. 5
新しいエピソードが枯渇したので、地味な回になりました。
新しいエピソードが枯渇したので、地味な回になりました。
Steam 版 DEATH STRANDING Director’s Cut のストーリーを、以前にプレイしていた PlayStation 4(PS4)版のオリジナル・カットに追いつくまで、バンバン寄り道しながら進めていくプレイ日記です。前回は中部エリアのクラフトマンのシェルターまでたどり着いていました。その後もちょっとだけ配信外で東部エリアの指名なし依頼をこなして、サムの配達人グレードを上げていました。前回、中部エリアで配達をしていた際に、川を渡る場面などで、サムの体力が落ちて転けやすくなっている印象を受けたので、配達人グレードをあげればサムの能力が底上げされて少しはマシになるかなと考えたのでした。
Director’s Cut のプレイ配信では、わりと初期から新規追加エピソードに挑戦できたのもあって、配信1回につき冒頭に1件、新しい依頼をこなしていこうと決めて続けてきたんですが、ここにきてその Director’s Cut の次の依頼が配送端末に追加されなくなりました。たぶん本編の進捗も発生条件に含まれていたんでしょうね。そして今の状態だと、次の依頼の条件を満たしていないんだと思います。
前回見た感じでは、どうも一連の新規エピソードで訪れる廃工場がブリッジ・ベイビーの開発に携わっていた場所で、そこにフラジャイル・エクスプレスの配達人も関与しているようでした。現社長のフラジャイルの物語は今ちょうど中部エリアを南下している最中にどんどん明らかになっていくので、それが落ち着くサウス・ノットシティにたどり着くあたりでできるようになるんじゃないかなと予想しています。まあ、できるようになったタイミングで、また前みたいにダイハードマンから通信でお知らせが入ると思うので、それまではいったん新規エピソードのことは忘れます。というわけで、今回の内容は至極地味です。
クラフトマンのシェルターまで進んだので、Director’s Cut でも配信外で国道復旧がてら温泉に漬かりに行く機会があったんですが、背後に2匹のアヒルちゃん人形がプカプカ浮いていることに気付きました。どちらも KOJIMA PRODUCTIONS の顔、ルーデンスを連想させるモヒカン頭で、1匹はルーデンスの白、もう1匹はオーソドックスなアヒルちゃんカラーの黄色になっています。前はいなかったと思うので、これも追加要素ですよね。かわいいな♪
あとは、これも配信外でたまたまクジラの悪夢を見ることができました。完全に気を抜いていたので、うまく最初から録画できていませんが、プライベート・ルームにいるときに出入口の扉のほうを見ると、たまにサムが外にふらふらと出ようとして、その先で大きなクジラと鉢合わせになるという内容になっています。暗くてわかりにくいのですが、部屋の外の廊下は結び目のような海底になっているっぽいですね。
このクジラって、アメリのビーチで座礁していた種類と一緒でしょうけど、この映像を改めて見て思った話、たぶん大型のハクジラですよね。わざわざハクジラなのは何か意味があるのかな~とふと思って、一番それっぽい大型種のマッコウクジラの生態をちらほら調べていたんですが、マッコウクジラは英語名で“sperm whale”という名前で、日本語に直訳すると「精液のクジラ」になります。クジラの頭部には「鯨ろう」や「脳油」と呼ばれる油があり、それの見た目が白濁しているので精液と間違えられていたことが由来だそうです。
そう言えば、プライベート・ルームって無理やり人型の棺っぽく見立てることもできるよねという話を過去の配信で何度かしていました。この扉が頭部、トイレ兼シャワールームが股間、右手側が武器や道具、BB-28も含めた装備品のディスプレイ、左手側がベッドと悪夢のディスプレイ、左脚の付け根に死んでいった仲間の亡霊が見える鏡、そして右脚の付け根にビーチを介した移動力の象徴とも言えるフラジャイルの傘が引っかけられています。サムは頭部に相当する棺の出入口で、同じ頭部に精液を蓄えていると見られていたクジラの姿を見ます。深海をゆったりと泳ぐその姿は、アメリのビーチで座礁する前の姿です。
「ハー」と「カー」という用語の元ネタになっている古代エジプトの死生観を過去に調べたときに書いたんですが、当時は死んでも第二の人生があると信じられていて、死者の体は死後の生活に向けて丁寧に防腐処理が施され、ミイラの状態で大切に保管されていました。内臓も体内から壷に取り出されて大切に保管されていましたが、脳だけは重要視されていなくて、捨てられていました。これはゲーム内のハートマンの文書でも語られています。クジラの精液も頭部に詰まっている内臓なので、脳と一緒に捨てられているのかもしれません。実際は石けんの油脂とかいろいろ、工業的にも多方面で活用されている素材なんですけどね。
現代の私たちは、心や精神、意識は脳の活動によるものだと思っている。
ハートマン
だが、古代エジプトでは、心は心臓に宿っていると考えられていた。ミイラをつくるとき、心臓だけは体内に残され、他の臓器は壷に収められた。でも脳は不要な臓器とされ、捨てられていたという。人間は心臓にある魂(カー)と、内臓が収められている肉体(ハー)でできている。これは現代の医学とは相いれない考え方だ。
しかし BB はどうだ? BT はどうだ?
あれらは、臍帯によって内臓で繋がっていると私には思える。
私たちは脳ではなく、子宮や心臓や内臓で死の世界を感じ、考えるようになりつつあると言えないだろうか。
以前からクラゲ型の BT が脳っぽいって話をしていたんですけど、じゃあ、このクラゲ型の BT がその捨てられたクジラの精液を脳と一緒に表しているのかな? 要らない子として捨てられた人間の、それも男性的な性欲の象徴とか?
ほかにも性的な表現で言うと、クジラの潮吹きも心が汚れた状態で耳にすると淫らな響きに聞こえなくもないような気がします。とくにマッコウクジラは噴気孔が正面を向いていて、ほかの種より噴き出した潮がよく目立ちます。アメリのビーチの座礁に、ちょっと色恋の匂いを感じると前々から書いてきたんですが、なんかダイレクトな表現がきたかもしれないとちょっと思いました。座礁鯨が発情して愛で雁字搦めになっていることを示唆する表現は、小説『デス・ストランディング』の冒頭にも見られました。ちなみに、マッコウクジラは体からして大きいので、オスのペニスは1m を超えるらしいです。馬並みどころじゃないですね。
マッコウクジラは上にも述べたとおり歯が生えている大型種です。成長したオスはオス同士で争い、勝ち抜いた者が複数のメスを相手に繁殖します。この歯はメスをめぐるオスの戦いにも利用されます。基本的に群れの絆が強く、まだハーレムを形成できない若いオスは、成長するまでオス同士でグループを組んで生活するそうです。オスの行動範囲はメスや子供より広く、基本育児には参加しないんですが、回遊中に合流したオスが外敵からほかの個体を守ろうとすることもあると言われています。
マッコウクジラのもう一つの大きな特徴は、深海に潜る生態だと思います。なんでも人生の三分の二を深海で過ごしているらしいです。上の悪夢でもサムは海底でクジラと遭遇しています。深海には光が届かないので、ほかの種よりエコロケーションを活用する機会が多くなっているみたいです。エコロケーションはブリッジ・ベイビーたちが BT を感知する方法だと以前にデッドマンが教えてくれていました。
イルカは仲間や獲物の位置を知るために、エコロケーションという方法を使っている。超音波を発信して、その反響をとらえて周囲の状況を把握しているんだ。BB が BT を感知するのにも、似たような方法を使っているらしいことが、わかってきた。BB のいるポッドは擬似的な胎内環境が再現されている。BB はある種の高周波を発し、あの世から跳ね返ってきた音波をキャッチして、BT の位置を把握しているんだ。
デッドマン
マッコウクジラの歯は、深海で狩りをしたものの、上まで獲物を運びきれない場合に、体の一部だけを噛みちぎって効率よく持ち帰るためにも利用されているそうです。マッコウクジラのおもな食性はイカ類だって話ですけど、サムが最初に出会う BT のキャッチャーが、最初クジラとかイルカとかの海獣と見せかけて、触手が何本も生えているイカ……というか、頭足類っぽい形態になるのもなんか意味ありますかね? 座礁鯨は BT を捕食しようとしてアメリのビーチで座礁しちゃうのかな? しかも表層的にはそこに共食いの示唆もあって、もっと言うと、クジラはブリッジズのマークだし、この世界の北米大陸のモチーフでもあるわけでしょ……? それがさらにブリッジ・ベイビーにもエコロケーションでつながるの……???
これまでにもこの北米大陸は死の海に半分沈んでいるんじゃないかという私の考えを書いてきましたが、もう一つの海の世界では、サムの結び目のように陸地が海底になっていると考えられます。マッコウクジラのような深海潜行型の種は、海面から海底、つまり北米大陸から見れば天から地面へと降りてくる機会が、ほかのクジラより多いというイメージになります。それが座礁しやすいってことなのかな?
上で何度も「精液」と書き連ねてきた鯨ろうですが、実際にはもちろんそんな生殖器官ではなく、本来はこのエコロケーションの際に音波を反響させるレンズのような役割を果たしている感覚器官です。正式には「メロン」と呼ばれているそうです。
そう言えば、たまに見る BB-28のフラッシュバックで、サンタの帽子をかぶったクリフがメロン帽子をサムのお母さんにプレゼントしていましたね。そう考えると座礁鯨は母属性持ちの可能性もあるのか……?
メロン体はクジラやイルカの仲間が日の光が届かない暗い場所で自分の居場所を把握するために必要不可欠な器官であり、仲間とコミュニケーションを取るために必須となっている器官でもあります。鯨ろうの融点はクジラの体温と海水の間にあり、通常は液化した状態で、海水を取り込んで冷やすと凝固する性質があります。この液体と固体の二つの性質をうまく調整できる特徴が、急激な潜水にも耐えるマッコウクジラの能力の秘訣だという説もあるそうです。
このマッコウクジラの特徴を考慮すると、座礁鯨はミイラ化の際に大事な感覚器官を捨てられて、アメリのビーチに迷い込んできた死者の魂であるみたいな考え方ができるんでしょうかね?
また、マッコウクジラを違う視点で見ると、小島秀夫監督が KONAMI 在籍時に手がけた METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN でも、小説『白鯨』の登場人物の名前が使われていました。同小説のクジラはマッコウクジラをモチーフにしているらしいです。同作のクジラは「モビー・ディック(Moby Dick)」と呼ばれていて、俗語で「巨大な男性器」を意味しています。これまた性的な表現ですね。こう見るとクジラの属性は男性的なんですよね。
これはあくまで個人的な考えなんですけど、コミュニケーションと性欲って、子孫を残さなければという本能に従う動物と違って、人間の場合だとけっこう密接に関わっている要素だと思います。生物学的な研究では、例えば鳥も賢いし、イルカも賢いって指摘されてて、人間の基準では計り知れない知能や社会性を持つ生物がまだまだいる可能性も否定できません。だから人間の社会性っていうのが、ほかの動物にはない高次なものだとか、そういうことまで言い張るつもりはないんですが、やっぱりこういう複雑な社会性は、ほかの動物のそれとはちょっと違うものだと思うし、人間が独自に発展させてきた機能であることには違いないと思います。
そういう点では、性行為自体も種の繁栄云々ではなく、一種の個と個のコミュニケーション手段でもあると言えるんじゃないでしょうか。マッコウクジラの頭部に、知能とコミュニケーションと性欲という複数の要素が詰まっている点に着目した掘り下げだと、これが人間にしかビーチがないポイントだったりして……なんてちょっと思いました。
以前からこの作品の世界観を掘り下げるときに、ブリッジ・ベイビーにビーチがあって、デッドマンにビーチがないのはなんでだろうなと何度か疑問を書いてきました。以前はデッドマンの体の組織が多能性幹細胞から作られたときに、魂の構成要素のひとつである心臓が形成されなかったからじゃないかと書いていましたが、今回の説を優先して考えるなら、性器が形成されなかった可能性も考えられそうですね。いや、アメリのビーチには複数種の海獣が座礁しているようだったので、何もこの説ばかりを推すわけじゃないんですけども、子孫を残すための生殖機能がないと考えると、むしろ絶滅体に近い存在だと言えると思います。
人間の性行為には、子を作る繁殖の目的以外に、相手に快楽を与えつつ、自分の快楽も求めなくてはいけない究極の共同作業としての側面があると私は考えています。相手に気遣いできない人間は、肉体関係でも総じて下手ですし、相手にばかり気遣いする人間の関係も破綻しがちです。こういう点、すごく本能的な部分での究極のコミュニケーション能力が試されてると思うんですよね。
こういう考えは、同性愛というものが人間の場合、軽視できない関係になる根拠の一つでもあると私は考えています。同性愛は古くはキリスト教のような宗教から、子を成せるわけでもないのに、無意味に快楽を貪る堕落の象徴みたいに描かれて嫌悪の対象にされてきました。でもその姿は、先天的に与えられた肉体の特徴を超越して相互理解を図ろうとする個と個の努力の結晶なわけじゃないですか。その崇高さの前に、性差を議論する必要はあるのかという疑問を生みます。
それに今の時代はどんな人でも、血のつながりを超えて子育てができます。信頼できるパートナーと一緒に次世代を育む家庭を築くって、それ自体が人間の社会性の基本単位だと思うし、子育てってやっぱり、こんな時代だからこその考えかもしれませんが、人間社会のなかではそれだけで高尚なことだと思うんですよ。社会のなかに身を置いていれば、子供を作らない選択をしても、自分が働いて税金を納めることで子育て世代を間接的に応援することもできる仕組みがあります。社会的に密になって、リソースに富んでいる現代では、なんでも自分で生み出さなければならなかった昔とはちょっと事情が違います。性別だとかの定義だとか制限だとかも、社会によって相対的に変わってくるものなんじゃないでしょうか。
これ以上書き続けると、本筋から逸れた話題に、ともすれば卑猥な単語も続きそうなので、実際の配達を進めていきましょう。上にも書いたとおり、今回は Director’s Cut の新しいエピソードをやらなかったんですが、物語の進展には影響がないサム指名依頼が東部エリアにいくつか残っていたので、念のため配信内でこなしておくことにしました。やっぱりサムご指名の依頼は大事な感じがしますもんね。
でもやってみた感じ、たぶんオリジナル・カットのときに全部やったやつですね。なので、やっておいてなんですが、ざっくりカットします。いざとなったら配信のバックアップ動画を見直せば詳細がわかるので、今回の記事にいちいち情報を書き残すことはしません。配信内容を動画で丸々残せるメリットはこういうところですね。
クリア必須ではない東部エリアのサム指名依頼をまとめて片付けたことで、プライベート・ルームのミュージックプレイヤーで聴ける曲に LOW ROAR の楽曲が2曲追加されました。その Anything You Need と Easy Way Out は、配信中も「もしや……」と言っていたんですが、やっぱり過去の記事で取りあげたことがある曲でした。だからこそ、このサム指名依頼は前にもやったなと気付けたんですけどね。東部エリアにはミュージシャンもいるし、ここのサム指名依頼は音楽と何か関連づけた構想になっていたのかな? 広く考えるとエコロケーションが音響関係だからつなげて考えることができるけど、絡めて考えるにしてもせいぜいそれくらいの緩いつながりで、私にはいまいちピンと来ませんでした。
ところで今回、北米大陸を走り回っていていまさら気付いたんですけど、バランスを崩したサムが転ばずに持ちこたえたときに BB-28がほめてくれるのって、Director’s Cut で追加された新機能ですよね……? 前はこういうのなかった気がします。
東部エリアのサム指名依頼を片付けている間に、いつものクリフの映像を見たんですが、視点主のポッドが持ち上げられるパターンだったので、いつも見えている病室の天井に、ケーブルを絡めてぶら下げるリング状の設備があることに気付きました。これ、やっぱり前に廃工場で見たのと同じ装置ですよね? 脳死母たちもブリジット・ストランド前大統領と同じように、体からタールみたいな黒い液体があふれてくるから、このチューブで抜き取っていたんじゃないかな? あるいは逆に、治療のために流し込んでいた可能性もあるか。どっちにしろ、死の海に近い存在になっていたって解釈ができると思います。
前回の配信では一度も強制終了エラーが出なかったので、なんか知らんうちに機嫌が直ったと話していたんですが、やっぱりただの偶然だったみたいです。今回の配信ではちょくちょくプログラムが落ちて、直前のセーブデータからやり直すことになりました。そうそう都合のいい奇跡は起こりませんね。今後もこの DEATH STRANDING Director’s Cut の配信は、機械の機嫌を見ながら続けることになりそうです。
PS4版のプレイ日記でも取りあげたニック・イーストンさんの何気ないメールです。これを読んでちょっと気になったことがあったので、配信でも口でたどたどしく私が本作を通じて覚えた違和感を説明していたんですが、改めてここにも文字にして書き残しておきます。
このメールでは、「伝説の配達人」とはサムのことだったと気付いたイーストンさんが、「この世界を善きものに繋いでくれるはず」の「何か」が、大統領やアメリとサムの間にあると語っています。
前大統領のブリジット・ストランドと、忙しい彼女の代わりにサムの世話をしていたアメリ、そして養子のサムは、家族としてのつながりを持っています。それは母と子の関係です。しかも、血縁関係がない、もっと言えば実の家族を滅ぼされた子が敵対者に育てられたというような穏やかではない構造の母子関係です。そういう血の呪縛みたいなものを乗り越えて、主人公のサムが葛藤しながら、すったもんだの末に実父の無念も含めて、養母の遺志を継いで大きなことを成し遂げる物語ならドラマにもなるし、美しい教訓を残せる話にもなると思うんですよ。親世代が現実の厳しさに打ちひしがれて、あるいは感情に駆られて実現できなかった理想を、子の世代が精練された形で築こうとするみたいな流れにもなりますしね。
でも、何度も書いているように、この物語、母が若くなった姿であるアメリを介して、母子間の色恋、それも男側の都合のいい色眼鏡を通じた情緒みたいなものが醸し出されているように私は感じます。上のクジラだってそう思わせる要素のひとつです。それがこのゲームをしていて、とてつもなく気持ち悪い点なんですよね。その関係で、果たしてこの世界を善きものに繋げますかね? なぜそこに肉欲を匂わせる要素を入れる必要があったんでしょうね?
これって、男女の感覚の違い、あるいは配偶者を探す年代と子育て世代の感覚の違いでもあるのかなと配信中にずっと話していました。男の人って、妹萌えとかいうジャンルもあるぐらいで、近親者でも性の対象として見るタイプの人が一定数いて、ある意味、市民権まで得てますよね。この感覚って、女の側からするとけっこうわからないことが多いんじゃないかなと私は思っています。もちろん全員じゃないと思うし、女の性欲もエグいものがあるし、中には性的に父親や男兄弟が好きって女性もいると思うんですけど、私の感覚では性的な倒錯を起こしている異常な状態だという認識です。その理由は、子供ができてしまう恐れがあって、さらにその子が被害者になる可能性があるからです。
あと、実際に親子間の肉体関係を見ていくと、家庭内暴力や虐待と切っても切り離せない関係になっていることも多いと思います。「この世界を善きものに繋いでくれるはず」みたいにキレイに消化していい関係には全然見えないんですよね。
近親者との交配は、単純に考えて、先天的に異常な遺伝子を持つ子供が産まれやすいというリスクを孕んでいます。その点でデメリットが大きいし、生まれてくる子供も不利益を被る有害性があります。個人が色恋に狂って親しい家族相手にそれを爆発させるのは勝手だけど、それに巻き込まれる被害者が存在する時点で浅はかすぎるというのが私の考えです。血がつながっていようがいまいが、親と子の性的な接触に嫌悪感を持つのは、責任ある大人として、正常な感性だと思うんです。だって、自分が育てている子、あるいは保護すべき年少者を性的な目で見る年長者が身近にいたら、普通に考えて害しか想定できないでしょ。自分が育てている子が年長の保護者をそういう目で見るタイプだったとしても気持ち悪いし、なんでこんな子に育ってしまったんだろうって、ちょっと思い悩むのが正常な保護者の心理だと私は考えています。
男が女より近親者を性の対象として見やすいのは、繁殖の力関係のバランスが要因になっているんじゃないでしょうか。一般に、どんな生物でも、子供を作って育てきるまでのコスト負担が大きいほうが競争の関係上、生殖の駆け引きでは有利な立場になります。生殖相手に困らない、あるいは生殖相手を選べるのは、そのコストを抱えて子を産むからです。人間のような生態なら、オスはメスを妊娠させるとその後は育児に参加しなくても自分の遺伝子を残せる機会があります。従ってオスは、できるだけ種をばらまいた者勝ちの戦略になります。一方で、子を託されたメスは、子供が独り立ちできるまで自分の時間と労力を割かなければいけません。
人間は雌雄別体なので、自分の遺伝子を残せない可能性もあるものの、繁殖のコストを背負わずに済むオスか、確実に自分の遺伝子を残せる代わりに、労力が必要になるメスかのどちらかです。だからオスは生殖をめぐる競争に勝たないと相手にすら巡り会えないし、メスは子供を作ろうとするだけで相手には困らないことが多くなります。このことが、とにかく身近にいるメスとやったもん勝ちのオスと、せっかく子を産むなら複数の選択肢の中からできるだけ優秀な遺伝子を残したいメスの差を生むのではないでしょうか。
女は概して男の匂いに敏感です。娘から見て父親は臭いし、母親も息子の汗が染みついた服をとても臭く感じます。匂いはメスにとって、適切な繁殖相手かどうかを見極める本能的な指標です。せっかくリスクをとって子を育てようとするメスにとって、男家族は選択肢の中でもできるだけ相手にしたくない候補です。子供のためにならないし、子供のためにならないことを、リスクを背負って、身を削りながらやる意味なんてありません。
DEATH STRANDING では、男性年少者のサムが、女性年長者である養母や義姉の接触を拒む姿がたびたび描かれています。年長者からの干渉によって被害を受けているのはサムだと考えられる環境です。現実でも母親や女性の年長者から性的暴力を受ける男性被害者も少なくない存在です。彼らは男であるが故に、自分の被害体験をどこにも打ち明けられないという女性とはまた違った苦悩を抱えています。サムの姿にそういった男性特有の悩みが見えるかというと、見えないというのが私の結論でした。サムとアメリの関係は、エンディングを観ても一種好意的に描かれています。性的かどうかに限らず、母子間に問題があることは明確なのに、その問題がはっきり問題提議としてなにかのドラマに発展することはないし、ただただサムが女性年長者を拒否して、嫌々相手が望むことをさせられて、でも途中からサムも内心、相手が好きだったということを示唆する描写も出てきたりして、最終的にはそれが否定されないまま物語が終わります。私が感じたのは、とにかくサムを受け身の被害者にした上で、彼の歪んだ性愛がやんわりと肯定されることが優先されている構成の物語なんだなという印象でした。
この具体的な問題に踏み込まない傾向は、何かの問題を物語として描きたいからではなく、ただたんに製作者である小島監督の主観的な女性嫌悪の発露だからじゃないかという話を過去に書いたことがあります。やっぱり私はここに行き着いてしまうんですよね。もっと物語を深読みして、違うと言いたいところなんですけど、そこまでの厚みがこの作品には今のところ見えてきません。
上にも書いたとおり、生殖をめぐる競争では、出産や育児のコスト負担が少ないオスのほうが厳しい競争に巻き込まれがちです。自分の魅力をアピールできないオスは、繁殖相手に巡り会うことさえ困難になりがちです。人間だと思春期の多感な時期に、学校などの社会で、女子より男子のほうが露骨に自分の価値を値踏みされるような屈辱を覚える傾向にあります。そこでネガティブな経験をして、自尊心を傷つけられた男性は、その後も女性に対する肉欲と、女性を否定して自尊心を回復させたいという感情の板挟みに陥りがちです。小島監督の作品は、ここら辺の気持ちの整理がつかないまま思春期の男子のような感情を爆発させてできあがった印象を強く覚えます。物語っていうより、整理がつかない感情のすし詰めです。
絶滅体からの誘惑を拒み続けるサムの姿は、私の目から見ると、メスのほうから求められる強いオスであるという演出です。サムが絶滅体からの要求をきっぱり拒絶せずに、なんだかんだ言われたとおりにやるのは、本心ではそれもやぶさかではないからです。しかし、その感情のままに能動的に動くと自尊心が傷ついてしまうので、あくまで女のお願いを聞いてやっている器のデカい男という体で話が進みます。小島作品は話が展開するうちに、こっぴどい目に遭う女性キャラクターがたくさん登場します。これは生殖をめぐる競争に敗れて劣等感をこじらせた男性の復讐なんじゃないでしょうか。ざまあみろ!――ってところですね。そして最後の最後まで女性が身を粉にして、受け身の男性がかっこつけて幕を下ろせるように、理想の環境を用意してくれます。ここもすごく陳腐に見えてしまうポイントです。
安っぽい物語になってしまうのは、男性が自分をかっこつけて見せたがっているのが露骨に見えるからという理由だけでなく、それよりも、女性キャラクターのような、自分以外の属性を踏み台にしないと自分をよく演出できないという幼稚さが光ってしまうのが問題なのだと思います。上に書いてきたことにも通じますけど、いい社会を築くために求められているコミュニケーションって、自分も気持ちいいし相手も気持ちいいっていう win-win の関係が理想です。そうではない物語を作るのであれば、現実的な問題を取りあげて、人の心に響く話にしないといけませんが、小島作品はここの掘り下げがとっても浅いと感じます。登場する女性キャラクターはいずれも男性ウケする典型的な美女タイプで、パターン化されていてバリエーションも少ない難点があります。女性の問題を調べて描こうという姿勢が微塵も感じられません。別に男女の問題は男が問題だとか女が問題だとかじゃなくて、相対する属性が影響し合っているだけのことで、そういった対立関係ももっと広い視野で見れば一部の特徴を抜き出して突き合わせただけに過ぎません。男性心理の問題を描くなら、それと相互に影響する女性の姿ももっとリサーチして盛り込めば奥深い物語に展開していくと私なんかは思うんですが、そういう話じゃないみたいですね。こういうところが、手足をジタバタさせて、自分をわかってよとわめいて、相手を傷つけるだけで、ろくに相手を理解しようともしない子供っぽさを感じさせるんだと思います。
幼稚に見えすぎるっていうのは、私がこの物語の印象を語る上で、無視できない大きな問題になっています。だからこういう点も、プレイ日記を書いて掘り下げるうちに、私の間違いだったと否定できるような作品の魅力が見つけられればいいなと期待してあれこれ考えています。
母子間の物語に色恋を持ち出す原因の一つが、配偶者を探す年代と子育て世代の感覚の違いでもあるのかなと思っていると上に書いたんですが、人間ある程度の年齢になったら、いやでも年少者を保護する自分の役割を意識するべきだと私は思うんですよね。小島監督は私より年上の年代です。孫がいてもおかしくありません。その年代の物語が、いつまでも自分の都合のいいように年少の異性の尻を追いかけ続けているのもどうかと正直感じるところがあります。
私は今、子育てしている真っ最中の世代なんですけど、最近は男性でも育児参加するのが普通になり始めています。自分で子供を育てるとわかると思うんですけど、きちんと育児をしていればいるほど、子供に対して性欲なんてわくはずないんですよ。おしめの交換、イヤイヤ期のかんしゃく、思春期の生意気な口のきき方あたりと根を詰めて向き合っていれば、かわいいと思って接していても恋心みたいなものに発展するわけないですし、何より自分の時間をきちんと割いて育てていれば、愛着がわいて、この子には絶対幸せになってほしいという親心みたいなものが芽生えてくるはずです。親子間の恋愛がありだと思えるのは、結局のところ自分がちゃんと大人になれていないだけではないか、あるいはそうでなければ、先天的な性嗜好障害なんじゃないかなとしか思えません。
私と同世代の人なら、男親が育児に参加しない家庭もめずらしくなかったと思います。そういう人は、自分のことを避け続けた父親が、ある程度の年齢に達したときに、急に父親面して接してくる違和感みたいなものに心当たりがあるかもしれません。子供は親のことをよく見ています。手がかかる乳幼児期には邪険に扱い、ある程度社会にも慣れ、会話が通じるようになった少年期から、急に父親をやろうとする大人が信用できないのは本能的にわかります。ただ自分の大切な親だから、露骨に否定したくない心理が働くだけです。そういう信用のない大人が、さらに子供に対して性欲を持ち出してくる下劣さを想像してみましょうよ。性欲を覚えるのは、自分が大切に育てた子供ではなく、どこかで都合よく勝手に育った若い異性の個体としてしか見ていない可能性がありますよね。私からしてみれば、言葉では言い表せない人間のクズです。
クズにはクズの物語があります。こういう物語を描くなら、実際の社会問題をきちんと調べて、きちんと今を生きる人の心に響く物語を練ればいいと思うんですよね。その練度が小島作品には今のところ見られないというのが私の感想です。それが底知れず気持ち悪いとここまで繰り返して書いてきたんですけど、結局のところ、現実でもちゃんと人間と向き合って相手を観察していれば、こんな幼稚な空想みたいな物語を炸裂させずにすんだんじゃないかと思うんですよね。
個人的な話、今私、ゲーム作品以外ではアニメ『機動戦士ガンダム』シリーズを調べてるんですけど、男性が作るオタク作品って、少なからずこういう自分を大きく見せたい、女性は否定したい、自分が主導権を握りたい、でも責任は負いたくない、あとやっぱりエロいのは好きだから女は必要っていう男性的嗜好が炸裂したものが少なくありません。こういう作品ってやっぱり製作スタッフにも女性の姿がほとんどないんですよね。男性視点に偏った製作工程になって生まれています。小島監督率いるゲーム開発チームも、いまいち著名な女性スタッフがいないと以前に指摘していました。
海外だとディズニーが2013年に映画『アナと雪の女王』でプリンセスの描き方を明確に変えてきたのが顕著な例になると思うんですけど、欧米は意識高い系の思考が歓迎される傾向にあるので、性別や人種を越えた多様性が作品にもよく盛り込まれています。採用されるスタッフも幅広くて、女性キャラクターを描くときは女性スタッフが重視されるし、人種問題を意識した制限も設けられています。欧米以外の文化を描くときは炎上リスクが大きいので、大きいところほどリサーチはかなり慎重にやっている印象です。意識高い系もそれはそれで問題点が多々あるので、欧米がいいと一概に主張する気はないんですが、それに比べるとやっぱり日本のクリエイターってものすごく属性が偏っているなと思います。この問題は、心地のいい似た属性同士が集まる似た世界観の偏った視点でしか作品を作れないので、変わらない、変えられないという課題を抱えています。多様性を意識した方が、新しい視点を取り入れて、新しい形に挑戦できて、未来があるように感じられますよね。小島作品は変わろうとしない限り、今後ずっと似たような鬱屈した男性視点の焼き増しの物語を量産するだけだと思います。
富野由悠季さんの作品もそうだと私個人は考えているんですけど、男性視点しかない男性向けの作品で女性の何かが描かれるとき、その多くは作り手の体験談と、足りない部分を古典作品のモノマネで補うという手法が往々にして採られます。特に男性オタクの物語って、どっか自分を賢く見せたいみたいな虚栄心が根底にある場合が多いと私は思っていて、例えば母と息子の恋愛でも、典型的な例を出すと、ギリシャ神話のガイアとウラノスの関係を示唆するものならちょっと格式が上がる感じがするよねとか、シェイクスピアの歌劇をなぞっていたら、急に奥行きが増して見えるよねみたいな、一定の評価がある外部の文献から引用した継ぎ接ぎが王道になっている気がしています。それは今のこの時代の流れの中で、果たして見る人の心に響くものなのかと、私は疑問に思うんです。この自由恋愛市場でみんなが苦悶している時代に、親子供を繁殖相手にしないといけないほど選択肢が少なかった原初の時代や、親が許婚を決める恋物語のコピー・ペーストで、物語に重みが出ますかね。
『機動戦士ガンダム』シリーズは、今『機動戦士ガンダム 水星の魔女』という女の子が主人公の最新作がテレビ放送されています。ガンダムに乗る女の子が主人公なのはシリーズで初めてです。でも製作スタッフを見ればわかりますが、主要スタッフに女性はろくにいません。脚本は『∀ガンダム』からガンダムに携わっているベテランの男性だし、今までもないことはなかった男性視点の女の子の物語です。一皮剥くと今までとほとんど同じで、おそらく富野さんが築いたガンダム物語を切り貼りした焼き増しがベースになっていると私は考えています。「新しい」と言われているけど、掘り下げると私にはオマージュのオンパレードで目新しさが感じられませんでした。けっきょく、すでに確立されたブランドを使い回して目先の収益を確実に得ようとするお商売でしかないと思うんです。なんか日本の創作って、未来がないなって、しみじみ思ってしまいました。変えようとしないし、変わろうともしていません。表層的には多様性を取り入れながら、自分が気持ちいいネタしか使い回そうとせず、自分と違う立場や視点の他者にまで意識がいっていないんですよね。それを DEATH STRANDING からも感じます。変わろうとしていないのか、変わりたくても変われないのか、よくわかりませんけども。
作り手である小島監督の心理に絡めて考えると、もうひとつ気になるのが虚栄心です。近親相姦が当たり前に繰り広げられる物語の筆頭は神話です。わかりやすいところで例えれば、上にも書いたとおり、ギリシア神話の地母神ガイアと息子のウラノスの夫婦関係が挙げられます。また主神ゼウスとその妻ヘラも同じ両親を持つ関係です。現実の人間社会で近親相姦が横行していたのは、なによりも血統が重視される王家や名門貴族の一族でしょう。たとえば、ヨーロッパで絶大な権力を握ったハプスブルク家は、婚姻による領地の喪失を恐れて血族間の結婚を繰り返し、一族には虚弱体質や知的障害が出て早世もめずらしくなく、ときに咀嚼が困難になるほど下顎が前へ突き出た身体的特徴などが遺伝により色濃く出ていたとされています。
神や権力者には近親相姦が許されてきた歴史があり、なにか凡人には理解しがたい大義を掲げた選ばれし者だけが許されるというこの点が、なおのこと、近親相姦を正当化したい人間心理に拍車をかけるのかもしれません。つまり、自分は選ばれた特別な生まれで、特別な階級に属しているので、一見獣じみたただの性欲の発露も、神聖な男女の交わりになるのだ、というような主張です。そこから私が感じるのは、ただの勘違いした人間の奢りです。虚栄心も炸裂した結果なので、ちょっとかわいそうに感じます。それは、平凡であってもありのままの自分を受け入れるということがとても難しい心理状態で、自分を、そして自分の生まれである親さえも巻き込んで、盛大に飾り立てないと自分という存在を受け入れられない繊細な人なんじゃないかと感じます。
保護者らしい保護者がいなかったという厳しい子供時代を送ったかたも一部にはいるかもしれませんが、たいていの人は親や年長の人間に多かれ少なかれ世話されて育った経験があると思います。そのなかで、自分の意図に反して保護者からこんな人間になってほしいという特定のイメージを押しつけられて戸惑った経験がある人も少なくないと思います。親の期待に応えなければと思って苦しんだ人もけっして少なくないでしょう。あれは子供の将来を思ってという以上に、いい親になりたいという親本人の社会的な承認欲求や親としての矜持なんかがあって、子供にもその協力を強いているわけですよね。親子って少なからずここらへんの期待の押しつけとそれに応えて信頼を築くバランスとりがあって、家族って、なかなか絶妙なバランスで成り立っているんだなと、自分が親になったときにあらためて思います。
家族でいることって、チームプレーなので、一人の虚栄心を原動力にみんなで頑張ろうって言ったって、健康的に活動できるわけないんですよ。でもチームだから、ある程度のプレッシャーの掛け合いは必須になるし、それがいいチームプレーを生み出す原動力にもなります。チームだから、ある程度、個々の個性を認めないといけないし、外で頑張る社会性に対して、素の自分に戻るセーフハウスの役割もあるから、しっかり気を緩めて休めるチームである必要もあります。相手のダメな部分も受け入れて、ただそばで黙って支えたり、一緒に成長したりするっていう共同体としての性質をまず受け入れないとやっていけないチームです。
ブリジット大統領と絶滅体のアメリは、人ならざる特殊な運命を背負って名門一族に生まれた女性で、主人公のサムは、血のつながりはないという設定を持ちながら彼らに愛され、求められ、彼らの運命に大きく関わっていきます。最初は嫌々渋りながら従っていたのに、最後は円満な雰囲気で彼らの遺志を継ぎます。この人物相関図の盛りに盛った設定を見ていくと、小島監督って、ありきたりな家族像をそのまま受け入れることができなそうな人だなという印象を覚えます。自分は特別でありたい、そのために親には立派な仕事に就いていてほしいというような下心がわかりやすいものから、人類の命運を握るような崇高な宿命があれば最高だといった厨二病の妄想めいたトッピングまでそろっています。上に書いた親が子にかける期待の逆バージョンです。親離れできていないのではないかと心配になります。でも彼が本当に受け入れられないのは、自分が求める完璧な家族像ではなかった親ではなくて、けっきょくのところ、自分自身なんじゃないかなと私は思います。そこに救いのなさを感じます。
またどうでもいい私の考えで文字数が伸びてきたので、そろそろ本題に戻ります。今回の配信では、東部エリアに残っていたサム指名依頼を片付けて、そのあと半分ぐらいの時間を過ぎたあたりで中部エリアに戻ってきました。このまま気象観測所を目指して物語の本筋を進めていきます。手始めにやるのは上のサム指名依頼 No. 22「廃墟からクラフトマンの道具箱を回収する」です。とは言っても、これも前にオリジナル・カットでやってブログに書いた話なので、細かい部分はスキップします。
今回のミドル・ノットシティ潜入では、面倒くさいからという理由で大胆なコース取りをしたのがあだになって見事に BT に見つかりました。ハンターに脚をつかまれて盛大に転けましたけど、タールの外に転がり出たので、キャッチャーのところに連れていかれるまでにはなりませんでした。ぎりぎりセーフ!
しかし背中に積んだ荷物が傷んでしまったので、今回のクラフトマンに届ける道具箱は17% 損傷して、A 評価となりました。現実だとこの後クラフトマンに分けてもらえる非殺傷兵器の数々が劣化クオリティになってしまっても文句は言えませんね。しかし転けてしまったものは仕方あるまい。
あとは今回の依頼達成でクラフトマンから報酬として頂けたボーラガンを抱えてミュールの集荷基地に殴り込みに行きます。続くサム指名依頼 No. 23「システム・サーバーを奪還せよ」の目的であるシステム・サーバーをポストから回収したら、基地にため込まれている素材をしこたまトラックに積み込んで、通り道の国道復旧装置に放り込んでいきます。盗んだ車両で走り出す~♪(五十路の昼ぅ~♪)これだけで今回の配信はほとんど時間が過ぎてしまいましたね。
途中で落とし物を届けるついでに寄ったエンジニアのシェルターで、指名なし依頼 No. 181「船舶点検用の特殊機器を届けろ」を受注してレイク・ノットシティに届けます。トラックがあると重量を気にしなくていいので便利ですね。
トラックに積んで持ってきたセラミックをちょいと追加して、レイク・ノットシティ前の国道ができあがりました。知らない間にすでに完成している区間もあるんですが、自分で完成させたのは、この Director’s Cut では初めてな気がします。祝・国道開通♪
このあとレイク・ノットシティで納品を済ませたら、リバース・トライクのデータをもらえました。そういやまだ、うちのサムは自由に車両をあれこれできなかったんでした。
続けてすぐ次のサム指名依頼 No. 24「K4南配送センターへ自動配送ロボの試験機を配送せよ」を受けて物語を進めていきます。ピーター・アングレールにピザを届ける依頼も下に追加されていますが、この日は時間がなかったので次回にやります。
しばらく休みなしの働きづめだったので、サムが汚れて、顔なんてめちゃくちゃ黒ずんでますが、どうせこの依頼の配達先で、物語の都合上プライベート・ルームに直行することになるので、このまま連続でやってしまいます。
先ほど国道をつないだので、レイク・ノットシティを出た先に、舗装の端から空へ浮かび上がる欠片のエフェクトが見えるようになったんですが、この感じも PS4向けのオリジナル・カットとはちょっと印象が違いますね。こっちのほうがグラフィックがよくなっているせいか、ものすごく欠片の存在感が大きいように感じます。主張が激しいというか……そんなに浮かび上がります……? その調子だと舗装、すぐなくなっちゃうんじゃない?
どうせならまだ復旧できていない国道の装置に道々素材を入れていこうと思い立ち、先ほど滅ぼしたミュールの集荷基地へまたやってきましたが、欲張りすぎて配達物の自動配送ロボ試験機パーツを背負ったまままた盛大に転けてしまいました。また10%以上の損傷でシレッとお届けします。何回もやっているとついつい仕事が雑になりがちなの、あるあるです。
K4南配送センターに着いたので、指名なし依頼 No. 468「発見されたデス・ストランディング以前のアメリカの歴史書を届けろ」を受注して、配送ロボをさっそく活用していきます。「Director’s Cut でこの子の機能が増えたんじゃなかったっけ?」という話を配信でしていたんですが、あれはこの自動配送ロボじゃなくて、自動追従ロボという別の機械になるらしいです。なので、またおいおいお披露目されて使えるようになると思います。ん~、楽しみだ!
ダイハードマンに勧められるままプライベート・ルームに行くと、フラジャイルが勝手に部屋にしのびこんでシャワーを使うムービーが始まります。そのまま二人は腹を割って話せ……たのかどうかよくわかりませんが、フラジャイルの腹づもりはおおかた聞けたので、サム視点ではちょっと距離が縮まった気がします。
寝起き恒例のメールチェックをしていたら、見慣れないメールが届いていることに気付きました。サウス・ノットシティ近くのクレーター湖で、変な“V”マークが刻印されたメモリーチップが見つかったらしいです。ブリッジズと契約しているポーターが確保してくれたらしいんですが、ミュールに襲われて紛失したらしいので、現地に行って現物を回収してきてほしいとの依頼でした。
配信中に、「ミュールに襲われて紛失」と言いながら「チップは奪われなかった」というこのメールの文面だけだと、チップがいったい今どういう状況なのかよくわからないと言っていたんですが、とりあえず K4南配送センターで依頼を受ければ詳しいことがわかるみたいです。ミュールに取られてないのは確かだけど、どさくさに紛れてどこに行ったかわからなくなったってだけなのかな? どこ行ったかわからないのに、ミュールが持ってないのは確かだって言い切れるもんですかね? ちょっと状況がわかりにくい文章です。
これもオリジナル・カットにはなかった依頼です。[λ] とは違う何かのコラボかな? 新鮮なので、今は Director’s Cut の新規追加エピソードもやれるものがないことですし、次回の配信の初っ端に、ピーター・アングレールのピザ配達と一緒にやってもいいかもしれません。
前にやったことがあるおなじみコラボの [λ] メールも届いていました。今度はレイク・ノットシティのウィリアム・レイクさんが落とし物回収の依頼をしてきます。説明を読む限り、今回もコンパニオンキューブみたいですね。ウィリアム、お前も Aperture Science 関係者か? ケーキの存在を信じているクチか?
ピーター・アングレールのシェルター近くに落ちているらしいので、次回やろうかと先ほど書いたピザ配達の帰り道にでも捜索してみますかね。見つかるかなあ?
最後に「それにしても、あなたは凄いですね👍 わざわざ歩いて荷物を運ぶなんて!」と書き添えてきたんですが、これって嫌味ですか……?
次回はバイクでピザ配達をしまーす!
仕切り直しの第二次遠征隊日記 NO. 6に続く
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